2017年12月6日水曜日

日本とアメリカ



 藤岡信勝「教科書が教えない歴史」の「日本とアメリカ」の章をまとめます。
 日本の歴史は、「日本は悪かった」という悪玉史観と「日本は悪くなかった」という善玉史観とふたつあって、高校生が歴史の授業で「また日本の悪口か」と嫌になるぐらい、学校では「悪玉史観」を教えられ、そう覚えないと試験に受かりません。
 日本には、「悪玉史観も善玉史観もとらない」で、実証的な歴史研究を行い、タブーにとらわれずに自由に論じようという立場もあって、そのような考え方を石橋湛山のような自由主義者がとりました。自由主義史観と言いますが、司馬遼太郎が同じ立場をとったために「司馬史観」とも呼ばれます。事実を論じる立場です。

 日本とアメリカの歴史は、ペリー来航に始まります。ペリーは、「日本が鎖国の国法に盾に通商を認めないなら、その罪は大きい。我々は武力によって、その罪を正す。国法を盾に防戦しても、こちらが勝つに決まっている。降伏する時は、送っておいた白旗を掲げよ。」という書簡とともに白旗を送って来ました。このような「砲艦外交」が国際社会ではあたりまえの弱肉強食の時代でした。日本は「白旗」の屈辱的な意味を知りました。
 国務長官クレイトンの「艦隊は直接江戸に向かい、将軍か幕府の長と面会せよ。下級武士とは話すな。」という意見書と、ペリーの行動は一致したものでした。「もし回答がなければ、祖国が侮辱されたものとみなす」と、すべては日本側の責任とするというのも、アメリカの姿勢でした。そして、92年後の1945年8月14日、「我々は初めて、ペリー以来の願望を果たした。もはや太平洋に邪魔者はいない。中国大陸の市場は我々のものとなるのだ。」とニューヨークタイムズは報じました。ハワイ、日本、中国の征服は、アメリカのマニフェスト・デスティニー(明らかな運命)、世界戦略でした。

 一方で、日本人はよくアメリカに学びました。ペリー来航の三年後、薩摩藩と佐賀藩は見よう見まねで蒸気船作りを始め、7年後には、自前の咸臨丸で、勝海舟、福沢諭吉をアメリカに送りました。副島種臣は、ペリーのやり方を教えてもらって、李氏朝鮮と「日朝修好条約」を結びました。アメリカに学んで、小学校制度を始め、瞬く間に12000校の学校を作りますが、アメリカ人から「児童教育は女性の先生の方がよい」と聞いて、東京女子師範学校(お茶の水大)を開校しました。
 日露戦争もアメリカに仲介してもらいました。日本がロシアの植民地となるか、独立国として生き残れるかの戦いでしたが、やっと日本海海戦に勝利した時には、国家予算を八年分使い切り、補充する兵もなく、25万の日本兵は疲れ切り、弾丸もありません。満州には新手を加え、80万のロシア兵が結集していました。金子堅太郎が、友人ルーズベルトに講和の仲立ちを願い、厭戦気分となっていたロシアと、1905年ポーツマスで講和しました。ロシアが樺太の南半分を譲り、日本は賠償金の要求を撤回しました。
 ポーツマスの講和会議の時に、ロシアが清国から借りていた「南満州鉄道の利権」を譲り受けました。高い利益が見込めるものでしたが、戦費を使いすぎたために、経営資金の見通しがつきません。その時に、アメリカの鉄道王のハリマンが、政府に共同経営の話を持ち掛け、多額の戦費をハリマンから借りていた政府でしたが、桂太郎首相と政財界は大歓迎しました。しかし、講和会議から帰ってきた小林寿太郎は、「兵士の血を流して得た権利を外国に売るのか」と大反対をします。もし、ハリマンの申し出を受けていれば、満州利権が日米戦争の争いの種となることは避けられていたかもしれません。

 日露戦争が終わるころ、多くの日本人がアメリカに移住し、勤勉に働き、土地を手に入れて農産物を作ったり、商店を始めたりしました。しかし、その勤勉さが白人の憎しみを買いました。一日2ドルの仕事を、日本人は1ドル半で行ない、アメリカ人よりも上手にこなします。「排日運動」が始まり、「日米戦争」を予測する本もたくさん出ました。1913年には、カルフォルニア州で、日本人の土地を没収する法律ができました。しかし、石橋湛山は、「立場が逆なら、日本も同じことをするだろう」と、冷静な対応を求めます。
 ウイルソン大統領は、第一次世界大戦後、「国際連盟」を提唱し始め、1919年のパリ講和会議で創設されます。その時に日本は、牧野伸顕(大久保利通の次男)代表が、「人種平等案」を提出します。アメリカに移住した日本人の迫害が背景にあり、黒人も期待していました。しかし、11の賛成、5の反対で否決されます。「これまで多数決で決めて来たではありませんか」という問いに、ウィルソンは「このような重要な問題は、全員が賛成でないとだめだ」と答えました。通ってしまえば、アメリカの人種問題が大変でした。

 日本は生糸を主に輸出していました。お客さんはアメリカでした。ところが、1929年にアメリカは大不況に襲われます。アメリカは輸入を制限したため、日本の生糸を産出する農家は、食べるにも困って、娘さんを身売りに出しました。人々は政府を見限り、満州、中国中央部に軍事拡大する軍部に声援を送ります。電球という工業製品も輸出し始めていましたが、イギリスは高い関税をかけて来ました。日本は孤立し、自給自足の道を模索するしかありませんでした。戦後、「自由貿易」(GATT)の仕組みができました。
 日本は経済封鎖をされて、死を待つか、植民地となるほかはなく、自己防衛のために戦争を始めました。1941年の12月にイギリス領マレー半島とアメリカ領ハワイに攻撃を仕掛けますが、日本が宣戦布告をしなかったとして、アメリカは日本を憎んでいます。「リメンバーパールハーバー」(真珠湾を忘れるな)というのです。しかし、宣戦布告はしていたのです。アメリカの日本大使館が、人事異動の送別パーティーをやっていて、大使館に送った電報に気づくのに遅れたのです。25分前に届けるはずの宣戦布告は、真珠湾攻撃の85分後に届けられ、後世に残る大悲劇となりました。この時の責任者は、責任を問われることなく出世しています。彼らを処罰しておれば、これほどの憎しみはなかったのです。

 1945年4月12日にルーズベルト大統領が急死しました。もし健在ならば、日本は徹底的に破壊され、アメリカとソ連で、日本は南北に分断統治されていたでしょう。ふた月前の2月に、ヤルタで、ルーズベルトはスターリンと、2-3か月後にソ連が日本を侵攻するという秘密協定を結んでいました。しかし、ルーズベルトは死に、ソ連はまだ侵攻せず、5月にドイツが無条件降伏します。その翌日、国務長官グルーは、「ソ連の対日参戦」と「アメリカの原爆開発」という驚くべき事実を知ります。
 日米開戦時の駐日大使であったグルーは、日本とアメリカの戦争を止めようと努力した人でした。今回も、何とか日本を破滅から救おうと、日本を壊滅した後に行なう「声明」を、事前に警告として行ない、それを受諾すれば壊滅は免れるようにしようとしました。そして、7月26日に、グルーの努力によって、「受諾しなければ、迅速かつ完全な破壊あるのみ」というポツダム宣言が出されました。日本の対応が遅れたため、原爆となりましたが、ソ連の本土侵攻は避けられたのです。ポツダム宣言は、無条件降伏ではなく、「降伏の条件は左のごとし」と明記された、有条件降伏でした。

 ルーズベルトは、極東に紛争を残そうとしました。ポツダム宣言受け入れ後、ソ連は千島列島を占領しますが、それは「戦争に勝っても領土を拡大しない」という合意に反したものでした。しかし、スターリンに、「あなたの国が太平洋への出口を必要としていることは分かっています」と言って、ソ連参戦の見返りを約束したのはルーズベルトです。ルーズベルトの部下は、「千島列島は昔から日本の領土です」と言いましたが、彼は耳を貸しませんでした。けれども、そのソ連と中国の間にも、紛争の種を蒔きました。
 1943年のエジプトのカイロの会議でも、蒋介石に「沖縄を欲しくはありませんか」と声をかけ、「沖縄は長い間日本の領土です」と辞退されています。ソ連、中国、日本の間に領土紛争が起きるように仕向けたのです。その理由を、「戦争が終わり、平和になっても、いずれは国同士の対立が生まれる。将来、極東の三大大国が団結し、アメリカをこの地域から締め出すかもしれない。それを防ぐため、三国の間に争いの種を蒔いておいた方がよい」と、ルーズベルトは語っています。これが、アメリカという大国の優れた指導者の姿なのです。よく知っておくべきことです。