2017年8月17日木曜日

大東亜会議







  深田祐介の「黎明の世紀-大東亜会議とその主役たち」を読みました。

 1943年の大東亜会議は、民族差別こそが戦争の元凶であるとして、人間の平等を訴えたアジア民族の会議として、稀有の会議であると思われています。日本人が声をかけ、中華民国の汪兆銘、満州国の張景恵、フィリピン共和国のホセ・ラウエル、タイ国のワンワイタヤコーン、ビルマ国のバー・モウ、自由インド政府のチャンドラ・ボースなど、そうそうたるメンバーが集まりました。事情によって、インドネシア共和国のスカルノは参加できませんでした。

 主催した東条英機は、行き届きすぎたぐらいの気配りで、彼の小役人振りが伺えます。会議の前に各国を訪問し、会議の前には各代表を訪ねて挨拶し、議場でもいちいち握手を求めるなど、細かすぎるぐらいの気配りです。彼の「日本が父親のようにアジア諸国を守るんだ」という姿勢は、彼らアジア代表者たちからは受け入れられず、それぞれが、日本の干渉を受けない独立を主張しましたから、会議はちぐはぐで、しかし、熱気にあふれていました。

 それぞれの代表が演説するにあたって、日本側が、通訳者の正確を期したいので、演説の原稿を見せてほしいと依頼すると、ラウエルとボースが、「検閲する気か、高飛車だ」と、頑固拒否します。困ってしまった日本側は、ハーバード大学出身で、通訳としては天才的な浜本正勝を、急遽、同時通訳者として抜擢し、その大任を委ねました。各国の代表者は、それぐらいに、日本を利用はするけれど、自分たちは利用されまい、という気概に満ちていました。

 大東亜戦争は、エネルギー資源の八割をアメリカに依存していた日本が、その供給を絶たれ、西欧列強の経済封鎖にあったために行った、自存自衛の戦いでした。半年もすれば、日本にエネルギーはなくなり、多くの日本人が餓死することがわかっていました。それで、仏印の石油を抑えたところで終結するつもりでした。ところが、マスコミと世論はそれを許さず、軍部も調子づいて、戦局を拡大したために、収拾がつかなくなって、目的を失っていました。

 大東亜会議は、「アジア民族の解放」という目的を無理やりつけて、戦争の拡大を正当化するものでした。けれども、東条英機も、ほかのアジアの指導者たちも、日本が負けることは十分にわかっていて、問題は戦後処理だと考えていました。アジアの代表たちは、本気で、アジアの解放、自国の独立を願っていたのです。実際、白人によるアジア支配は、あまりに残酷なものでした。日本は高飛車でしたが、少なくとも、アジア諸国のために白人を追い出し、守ってくれました。

 大東亜会議の結果、白人支配の苦しみの中から、それぞれの国が独立の道を歩むことが確認されました。日本も、それを最大限支援すると決まりました。そして、日本が戦争に負ける前に、東条英機は各国に独立をするように励まし、再び白人の支配に戻るところから、各国は果敢に戦い、独立を勝ち取っていったのです。フィリピンも、タイも、ビルマも、インドも、インドネシアも、日本に励まされて独立したことを誇っており、ある国は、この会議の日を、自国の独立の記念日としています。

 しかし、汪兆銘は気の毒でした。彼は日本の優柔不断さに翻弄されて、生涯を終わります。せっかく会議で決まったものを、日本人は実行しない。なぜなら、「上下不貫徹、前後不節連、左右不連携」、上で決まったものが下に降りない、前に決まったものが次の政権で忘れ去られる、各組織が横並びで連携できていない…このために、約束を反故にされてきたからです。それは、満州国にも言えそうですが、ほとんどの国が、うまく日本を利用できたのでした。

 肌の色が黄色いからと言って、奴隷にされ、モノのように扱われていいはずがありません。けれども、世界の歴史は、そのような白人の人種差別の歴史でした。まだ終わってはいません。民族が民族を侵略し、虐殺し、その土地を奪ってはならないのです。日本は目的を失い、図に乗ってしまいましたが、アジアの人々は、「黄色い人がやって来て、私たちを奴隷状態から救い出してくれる」という伝説を信じ、そのとおりに、日本人によって自由をもらった、その恩を忘れていないのです。