2017年9月12日火曜日

父の謝罪碑を撤去します



  大高未貴「父の謝罪碑を撤去します」を読みました。

 現在、吉田清治氏の謝罪碑を撤去しようとしたために、奥茂治氏が韓国警察に拘束されています。吉田清治は、「従軍慰安婦問題」を世界に広めた最初の人で、そのご長男が、父親が行った捏造事件を謝罪したいと、奥氏に謝罪碑の撤去をお願いしたのです。実際は、謝罪碑はかなり大きなもので、撤去は難しく、その碑文を覆うように、謝罪ではない碑文をはめ込みました。

 謝罪碑は、1983年に建てられたもので、次のように書かれていました。
 「あなたは日本の侵略戦争のために徴用され、強制連行されて、強制労働の屈辱と苦難の中で、家族を思い、望郷の念むなしく、尊い命を奪われました。私は徴用と強制連行を実行指揮した日本人のひとりとして、人道に反したその行為と精神を、潔く反省して、謹んであなたに謝罪いたします。老齢の私は、死後もあなたの例の前に拝跪して、あなたの許しを請い続けます。」

 朝日新聞は、「たったひとりの謝罪」と題して、彼の跪く姿の写真とともに、1983年12月15日の新聞に、大々的に報道をしました。その後、吉田清治の話は虚言らしいと、学者たちの間でも問題視されるようになり、2014年の12月24日に、朝日新聞はこの記事を取り消し、さらに謝罪を求められたので、不承不承ながら、部分的な謝罪をします。しかし、「従軍慰安婦問題」は、虚偽であると分かっても、どうしようもなく世界に拡大していました。

 ご長男は、せめてのも罪滅ぼしと、謝罪碑の碑文を、新しい碑文で覆ったのでした。
 「慰霊の碑 吉田雄兎 日本国 福岡」(雄兎は清治の本名)

 吉田清治の碑文には、「慰安婦」の文字はありません。彼の謝罪は、実はサハリン訴訟、すなわち「樺太残留韓国人帰還請求裁判」(1975-1989)に対するもので、ソ連が日ソ不可侵条約を破って侵攻したため、取り残された韓国人の慰謝料を日本が払え、というものでした。以後、日本は80億以上の「サハリン支援金」を払い続けており、今年も1億1100万円を支払っています。それを「慰安婦」の問題としたのは朝日新聞で、韓国の「戦後賠償ビジネス」の片棒を担いだわけです。

 吉田清治は、自分は済州島で慰安婦狩りをした責任者だと言い、それを取り上げたのは朝日新聞でした。「朝鮮の女性 私も連行 暴行加え無理やり」(朝日新聞1982年9月2日)は、現在は取り消されていますが、当時の日本国民にショックを与えました。吉田氏は、三年間、10数回に渡って朝鮮半島に行き、直接指揮して、日本に強制連行したと語りました。その人数は6000人、そのうち950人が従軍慰安婦となった、と語りました。ご長男は、「父は済州島に行ったことはない、と話していました」と言い、済州島の地図を見ながら、記事を書いていた、と証言しています。

 吉田氏は、労務報国会下関支部動員部長として、済州島の慰安婦狩りの体験を、まことしやかに、生々しく語っています。
 「塩乾魚の製造工場に行った時に、隊員に肩をつかまれた若い娘は、悲鳴を上げて隊員の手を振り払った。年取った女が娘を抱きしめて叫び立った。…服が裂け、胸元が裸になった娘が泣き叫んで、塩かますにしがみつくと、隊員に腰を蹴られて転がった。この島の娘は、足は素肌で、ばたついて暴れたが、隊員は足首をつかんで、笑いながら引きずり出した。」(「私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行」三一書房)
 「完全武装の日本兵10人がトラックで同行し、集落を見つけると、兵士が包囲し、私の部下9人が一斉に突入した。若い女性の手を捻じ曲げ、路地に引きずり出し、ホロのついたトラックに押し込んだ。連行の途中、兵士たちはホロの中で集団暴行し、手あたり次第、狩り出しは続いた。…」(朝日新聞1982年9月2日の記事)

 このような記事がほんとうかという問いに、吉田氏は、次のように答えています。
 「本に真実を書いても、何の利益もない。事実を隠して、自分の主張を混ぜて書くなんてことは、新聞だってやっていることじゃありませんか。」(週刊新潮1988年2月9日)
 朝日新聞だって嘘ばかり書いているんだから、自分が嘘を書いてどこが悪い、といった調子です。問題は、この嘘が世界中に、事実として受け止められていることです。

 今年から、米カルフォルニア州の公立高校の教科書には、「制度化された性奴隷の例」として、「慰安婦は戦前、戦中と、領土を占領した日本軍によって、性的サービスを強要された女性たちのこと」として挙げられています。アメリカ合衆国の下院121号決議には、「慰安婦は、残虐性と規模において、前例のない、20世紀最大の人身売買のひとつである」となっています。世界中に、慰安婦の捏造が広まると、日本人が海外で暮らすのに、子どもが学校でいじめられるなど、支障が出てきます。その源が、根拠のない「吉田証言」にあるのです。

 吉田氏の所属したという「山口県労務報国会下関支部」というのは、慰安婦狩りの組織ではなく、下関市内の大工、左官、土木工事の人々を、日雇いで雇うための現場監督の組織ですが、吉田氏が在籍していた記録はありません。けれども、「下関肥料株式会社」の取り締まりだった記録は見つかって、労務報国会の余った肥料を、お百姓さんに回していたようですが、すぐに倒産しています。その後は、借金取りに追われて、逃げ回る日々を送っていました。

 ある時に、NHKラジオの「ラジオと私」という番組に投稿し、懸賞金10万円を獲得します。その後、週刊朝日の「私の8月15日」という公募に、「私は朝鮮人をかばって、軍刀を振り回して守った」という記事が載ります。一般人が軍刀など、持っていないはずですが、彼の記事は感動的で、朴慶植の「朝鮮人強制連行の記録」(未来社)の中に引用されています。この頃から、彼の著作活動が始まりました。

 1965年前後には、小野田化学工業の寮の管理人として、住み込み、ふたりの男の子を育てています。貧しかったので、ふたりの男の子は、ソ連が社会主義宣伝のために留学生を募集していたものに応募してソ連に渡りました。途中で退学したふたりでしたが、日本に帰ると、ソ連をスパイするために公安に雇われました。吉田氏の生活は安定し、著作活動を再開、朝日新聞川崎支局に売り込んで、「連載 韓国・朝鮮人2 命令忠実に実行 抵抗すれば罰」で、再びデビューします。

 しかし、なんで吉田氏は、これほどに慰安婦問題にこだわるのでしょう。ある日、鶴見署の前でと下座する吉田清治がおりました。事情を刑事が聴くと、「大韓民国中央情報部(KCIA)から、息子を公安で働かせるな、と言われた。私は彼らにお金を借りているから、やめさせてほしい。」というものでした。ふたりの息子が働いて、借金などあるはずもないと思われるのですが、何かの力が働いていたのでしょう。

 やがて「吉田証言」は信用されなくなり、朝日新聞も、同社の植村隆記者が、元慰安婦の金学順の証言などをインタビューして、口伝の実名証言を行うようになっていきます。 吉田氏は、1896年には、千葉県我孫子市に引っ越し、2003年に、直腸ガンで死ぬまで、寂しい生活を送りました。晩年の吉田氏は、
 「私はバチカンに行って、外務省の手の届かないところで証言をする。外務省は軍国主義となって、社会党も私の証言を取り上げなくなった。実は、アメリカ人シスターも、慰安婦にされていた。イスラム教信者も、モスクの中で強姦されたんだ」と、80歳とは言え、めちゃくちゃな証言をするようになり、だれも取り合わなくなってしまいます。

 朝日新聞が、吉田氏に代わって、従軍慰安婦問題の一大キャンペーンに乗り出します。「忘れられた人々」と題して、「国家間は解決したと言っても、民間では解決していない」という論陣を張りました。
 
 東丘いずひという、劇団「夢屋」を率いる女優は、慰安婦問題を知って、演劇活動で社会に訴えました。「従軍慰安婦」(1987年)「女子挺身隊」(1988年)と、次々に講演を始めました。その後、慰安婦問題と取り組む団体「韓国挺身隊問題対策協議会」の尹貞玉(ユン・ジョンオク)代表から、応援を求められるようになりました(1991年)。

 ところが、翌年、衆議院議員会館で東丘さんが尹さんとお会いすると、態度は豹変していました。募金も署名もいらないと、断られてしまったのです。25万円の募金と2500人の署名では、少なすぎるのでしょうか。会談中に、土井たか子議員の秘書が、「いつものものです」と、数百万円は入っているであろう、封筒を届けに来ます。社会党の支援があるから、要らないというのでしようか。実は、「国家賠償ビジネス」は、大きな岐路に立っていました。

 社会党は、慰安婦問題を取り上げるようになっていました。その背景には、1989年のベルリンの壁の崩壊、1991年のソ連の崩壊があります。社会党は、ソ連からの多額の支援金を受けられない状態になっていたのです。 そのために、「国家賠償ビジネス」から資金を得ようとしたいたのでしょう。ビジネスの形は、やがて、「河野談話」(1993)「村山談話」(1995)によって、基礎を据えられて行きます。東丘さんが裏切られたのは、民間から国家へと、ビジネスの形が変わったからでした。

 実際、1997年の慰安婦のための基金も、慰安婦のもとには行きませんでした。「日本からのけがれた金を受け取れば、ほんとうの娼婦になる。受け取った七人は娼婦だ。」という国民世論がありました。個人が個人にではなく、国が国にとなります。さらに、1992年になると、「朝鮮日本軍性的奴隷及び強制連行被害者補償対策委員会」が作られ、慰安婦問題は、北朝鮮と南朝鮮の「共同事業」となっていたのです。東丘さんが切り捨てられるのは、そういう理由によりました。

 長男が、吉田清治の記事が出始めた時のことを、回想しています。家賃が5万のところから、12万のところへと引っ越しました。父親は、「500万や1000万はすぐに入って来る」と言っていました。周りには韓国の人々がいて、彼が韓国に行くのは特別待遇、パスポートもスタンプが押されずに、「あなたは立派なことをしている」と韓国の人々にほめそやされました。彼の後に、加藤紘一、宮澤喜一が、軍の関与を認めて謝罪をします。大成功でした。けれども、これでよかったのでしょうか。

 国を売って、父や母たちを辱めて、世界中に日本人を恥ずかしい民族だと貶めてしまって、これで良かったのでしょうか。 もちろん、いいはずがありません。国家賠償ビジネスに騙される日本人がいても、お人好しで済みます。けれども、「父と母を敬え」とある、聖書の教えを破って、神さまにさばかれないはずはありません。吉田清治は、日本人の敵となりました。そのご長男が、父親の謝罪碑を撤去したいと願う…悲しい息子さんの胸の内がしのばれます。日本人を売ってはいけない。日本人は、誇り高い民族です。「従軍慰安婦」なとど、愚弄するような言葉さえ、私は忌み嫌います。政治的な判断とはいえ、「日韓合意」などありえません。嘘は嘘なのです。