2017年10月3日火曜日

茶の本








 岡倉天心「茶の本」を読みました。日本の伝統を思い、自然な形で福音を伝えたい、という思いからです。天心は、江戸、明治、大正と生きた思想家です。「茶の本」を書いて、日本の伝統を海外に伝えましたが、後に、「自分は茶には無知であった」と告白しています。茶の湯の大家ではなく、「守護者」でした。彼は、東大の時代に、アメリカの学者アーネスト・フェノロサの影響を受けて、日本の芸術を保護しようと働き始めました。そして、それに生涯をかけたのでした。

 天心がフェノロサから学んだのは、日本は芸術品の宝庫であり、歴史のあらゆる時代の宝物を備えた、「アジア文化の博物館」であることでした。彼はアメリカに留学し、西洋の目で日本を見た時に、日本人とは違った客観的な視点で、むしろ、西洋哲学の視点から、日本の美術を再評価できたのでした。その時に、「茶の湯」は、日本の精神文化の一つの形であって、生活を芸術に高める修行の一つだと知りました。

  「美しいものとともに生きたものだけが、美しく死ぬことができる」(千利休)のでした。

 日本には、茶の湯という美しいものがありました。アメリカ人は、日本に宣教に来る時に、与えようとして来ますが、決して受けようとはしません。それは大きな間違いです。東洋は、若干の点において、西洋に勝っています。「自分の中の大きなものの小ささがわからない者は、相手の中の小さなものの大きさがわからない」と天心は言います。西洋人は、東洋人がたしなむ「茶」の大きさがわかりません。アメリカの独立だって、お茶から始まったのです(1887年、ボストン茶会事件)。

 茶はもともと中国のもので、初めは「医薬」でしたが、唐の時代の天才「陸羽」が最初の「茶の使徒」となって「茶経」を著し、茶の掟を定式化し、芸術にまで高めました。それは審美主義の宗教となりました。それは、仏教と道教と儒教が次々と現れ、混在していた時代に、それらを統合しようという時代でした。そしてそれらは、茶の湯の中に統合しました。茶の湯は、これらの汎神論の中に、調和と秩序を見出しました。それは、日常生活の中で、美しいものを見出し、あがめる儀式でした。

 中国は、初めは漢民族が住んでいた土地に、漢民族以外の民族が国を建てた場所でした。ただ、「漢」と「明」というふたつの国は、もともとの漢民族が作りました。「清」は満州族ですし、「元」はモンゴルですし、「金」は女真族ですし、「秦」は遊牧民族の羌(きょう)族ですし、隋や唐は狩猟民族の鮮卑ですし、宋はトルコ系の突厥(とっけつ)ですし、もともとの漢民族は劣勢でしたが、現在の中華人民共和国は、毛沢東以来、漢民族の国…いや、世界征服まで考えています。

 それで、唐の時代に始まった茶は、「団茶」と言い、干し固めた茶で、削ってお湯に入れました。茶の緑を生かすために、青い茶器が使われました。宋の時代になると、「粉茶」になりました。それは、天目と呼ばれる、青黒い色と、暗い褐色の茶器が使われました。明の時代になると、「だし茶」となって、今の煎茶の形になり、白い茶器が使われました。しかし、いずれの時代にも、支配者は変わっても、中国には漢民族の文化は残っていました。

 それで、いずれの時代の「茶」も、日本に伝来しました。唐代の茶は、聖武天皇が百人の僧侶を招いて開いた茶会(729年)や、最澄が叡山に茶を移植し(801年)、茶園を作って、僧侶の飲料とした記録が残っています。宋代の茶は、栄西禅師が、新種の茶を三つ移植し、その一つが宇治の抹茶として残っています。彼は、病気がちの源実朝将軍に、「喫茶養生記」という著作とともに、茶を送って喜ばれました。15世紀になると、足利義政の奨励で、茶の湯は完全に組織化しました。

 茶の湯は、このように15世紀に、今の茶の湯に発展しますが、それは、仏教徒の中で、特に、道家の教理を多分に取り入れた南方の禅宗によって、「心を込めた」茶の儀式となって、僧侶たちに愛好されました。団茶の唐の時代は、理想主義の時代でしたが、粉茶の宋の時代は、現実主義の時代でした。 日本に伝わった茶も、茶そのものよりも、それをたてていく過程で、精神修行を行うという、鍛錬の一方法となりました。それは、自然を味わい、清潔に励み、贅沢を慎むという、実用的なものでした。

 茶の湯の神学である「道教」は汎神論で、絶対的な真理はなく、真理は相対的なものであると信じていました。道教は、社会の必要から生まれた、実践の教えでした。「法律や、社会道徳には、意味がない」「正しいとか、正しくないとか、相対的なものにすぎない」「まじめに世の中生きても意味がない」という相対の世界です。道教は、真理を信じるキリスト教とは対極にある「処世術」でした。真理などは、どうでもよいものでした。日本のクリスチャンに、それがないか心配です。

 宋の時代の寓話に、それをよく示している「三人の酢をなめる者」という寓話があります。

 「三人の人が酢をなめた。最初になめた釈迦牟尼は、『すっぱい』と言った。次になめた孔子は、『にがい』と言った。最後になめた老子は、『あまい』と言った。」

 人それぞれ感じ方があるし、受け取り方があるし、それでいいではないかというのが、茶の湯の根底にある「禅」の道教的な「相対性の崇拝」なのです。これは、「神さまはおひとり、キリストはおひとり、真理はひとつ」とするキリスト教とは相いれないものです。それは、「事実」とか「真理」とは無縁の世界です。すべては、「自分の心」が大事なのであって、その「自分の心」との交流以外に、ほんとうのものは存在しません。これが、キリスト教がわからない、日本人の宗教です。

 禅宗の六代目の指導者、六祖慧能の有名な話があります。ふたりの僧が、塔にはためく旗を見て言いました。「風が動いている」「いや、旗が動いている」―しかし、慧能は間違いだとしました。「風も旗も動いていない。動いているのは、お前たちの心の内にあるものだ。」…すべては相対的です。ある意味、世界そのものもなく、すべては「私の心の投影」なのです。そうなると、例えば殺人をしても、それは「心の投影」で済んでしまいます。「事実」ではなく、「心」だけが存在するのですから、すべては消え去っていく「心の現象」に過ぎないのですから…。

 もうひとつ、荘子と友人の会話。荘子が、「楽しそうに魚が泳いでいるね」と言うと、友人は「魚が楽しいかどうか、君に分かるはずがない」と言います。すると荘子は、「魚が楽しんでいることが、私に分からないと、どうして君に言えるのだ。君と私は違うじゃないか。」と言うので、友人の負けです。魚が楽しんでいることは、荘子の心の真実であって、それを誰にも否定はできないのです。

 茶の湯の大家は、千利休です。彼によれば、「茶の湯とは、ただ湯を沸かし、茶をたてて、飲むばかりなる、もとを知るべし」…自然に親しい人が集まって、食事をともにし、茶を飲み、浮世のわずらわしさを離れて、休息を楽しむこと、ただそれだけです。そして、平安を得ることです。禅僧の臨済が言うには、「まことの貴族とは、何も心配することがない人のこと」(無事是貴人)なのでした。そのような「心の境地」、「侘び」の境地に達することが、茶の湯の目的でもあります。

 「見渡せば、花も紅葉もなかりけり、浦の苫屋(ともや)の、秋の夕暮れ」(藤原定家)

 「不完全」です、足りないものだらけです、そして、それが人間本来の姿だというのです。そのような中で、足らざる自分が心を込めて、友を茶の湯に招くのです。「今のこの茶会は、生涯にただ、一度のものである」(一期一会)―そのように利休は、師である紹鴎(じょうおう)から学んだ、と言われています。そこに、茶の湯の道がありました。「道」(タオ)というのは、宇宙と人生の根源的な不滅の原理です。首としんにょうからできたこの言葉は、「始まり」(首)と「終わり」(しんにょう)からできています。始まりから終わりまで、「不完全」という「美」があるのです。それを崇拝するのです。

 聖書には、「伝道者の書」があります。「すべては空である」と教えています。神さまなしに、キリストなしに、すべては空なのです。それを美しいとするのでしょうか。私は、そのような世界だからこそ、キリストを必要とし、キリストを得た時に、「すべては光である」ことを見出したのです。 クリスチャンの中にも、救いがわからないように、自分の心ばかりを見つめて、「人それぞれ、いろんな考え方がある」なんて言っている人がいます。それじゃ、救われようがありません。「この御方以外に救いはない」と言えなければ、侘び、さびの世界に滅びていくのです。

 日本の伝統を重んじながら、そのなかには決してない、「キリストの光」を伝えて行きたいと思うのです。押しつけじゃいけません。私たちも、「不完全の美」をよくよく味わいながら、それをはるかに超えた、キリストの恵みを伝えて行くのです。この世に迎合せずに、しかし、よく耳を傾けて、私たちの信じるキリストを伝えます。それは決して、傲慢な態度で語ってはならないことです。茶の湯以上の謙遜さが求められている、と思います。













































































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