2017年8月25日金曜日

日本とユダヤ






 ベン・アミー・シロニー「日本とユダヤ―その友好の歴史」を読みました。日本人とユダヤ人との友好で、忘れてはならない三人の人がいます。

 最初の人は、ヤコブ・シフです。日露戦争の時に日本の国債を発行し、高橋是清に戦費の半分を工面しました。当時、シフの住むロシアでは、ポグロム(ユダヤ人迫害)が始まっていました。
 ニコライ二世は、民衆の不信感を抑えるため、ユダヤ人に攻撃の矢を向けました。ロシア警察は、「シオンの長老の議定書」という偽文書を作って、ユダヤ陰謀説を民衆に広めました。
 ユダヤ人は世界征服を企てていると喧伝し、暴動で多数のユダヤ人が殺されます。時に、ニコライ二世は、大津事件で殺されそうになった経験から日本を憎み、戦争を仕掛けようとしました。
 1904年から始まる日露戦争は、在日のユダヤ人が、長崎のシナゴクで、日本の勝利と明治天皇の御栄を祈る中で、翌年、奇跡的な勝利を迎えます。ユダヤ人はみんな日本の勝利を喜びました。
 さらにユダヤ人は、反ユダヤ主義のロシアを倒すため、1905年に、ユダヤ人レオ・トロツキーが、「革命ソビエト」を設立し、ロシア革命に参加します。共産主義に期待が寄せられました。

 次の人は、樋口季一郎です。この時には、ドイツが反ユダヤ主義を行い、ポグロムが始まっていました。ポーランドとソ連はユダヤ人が逃避するための通過を受け入れましたが、満州はドイツと同盟を結ぼうとしており、通過を認めていませんでした。
 関東軍の陸軍少将だった樋口は、ソ連側のオトポールに押し寄せるユダヤ人を、満州側の満州里(マンチューリ)に受け入れる通過ビザを発行しました。満鉄の松岡洋右総裁に同意を得て救援列車を出動させ、無料でウラジオストクまで届けました。
 樋口は、反革命派のロシア人が、ユダヤ陰謀説を信じて、ユダヤ人を憎んでいることを知りますが、共産主義とユダヤ人迫害は別物だと考えました。むしろ、人道上の問題としました。
 また、ユダヤ人の商人が、「日本の天皇は、私たちが待ち望んでいたメシアだと思う。天皇は自らの民を差別なさらず、その民もまた、人種的な偏見を持っていない。」と語るのを聞いて、日本の国是である「人種平等」を守るべきと考えます。
 当時の関東軍参議長であった東条英機中将は、「オトボールの通過をドイツが認めないから、ドイツは人道上、敵国である。日本と満州が、それに与するなら大問題だ。日本はドイツの属国ではないだろう。」と樋口に言われ、ユダヤ人受け入れを認めます。
 こうして、1938年から1941年まで、独ソ戦が始まるまで、「樋口ルート」によって難を逃れたユダヤ人は、二万人に及ぶと言われます。当時の日本は、西欧の「民族差別」を受け入れず、「人種平等」に立っていたことが、このような行動となりました。

 最後の人は、杉浦千畝です。彼は、リトアニアの領事館に務める外交官でしたが、1940年の7月に、ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人に通過ビザを出して、六千人を助けました。まだ、ホロコースト(ユダヤ人虐殺)は始まっていませんでしたが、世界的に反ユダヤ主義が広まり、日本だけが民族差別をしませんでした。
 日本の近衛内閣は、1938年に、「ユダヤ人対策要綱」を決めて、「ドイツのような態度は、人種平等の精神と合致しない」として、ユダヤ人救援を国策としていました。1940年の7月には、「行き先の国の入国許可の手続きが完了していれば、通過ビザを発給すること」と、今と同じような条件で通過できました。
 しかし、杉浦千畝の場合は、最低限の条件を満たさない者も通過させた点が違っていました。全くお金がなくても、シベリヤ鉄道の終点で待っている根井総領事代理の温情を信じ、日本の受け入れ先である敦賀市、神戸市の歓迎を信じていました。
 それで、アメリカが99%認めなかったユダヤ人通過を、日本は100%認めるという、世界的な反ユダヤ主義に逆行する決断を日本の杉浦千畝はしたのでした。帰国後も、杉浦千畝のしたことは、全く責任を問われず、そのまま外務省で働きました。
 後に家族が、杉浦千畝の功績を本にし、それを読んだ鈴木宗男議員、宮沢喜一総理が、彼の功績に脚光を浴びせるようになりました。杉浦千畝を捜し続けたユダヤ人も、戦後28年ぶりに、彼を探し出し、ゴールデンブックに記載しました。
 ただし、杉浦千畝が、1946年に、「例の件」で外務省を辞職したという話を、家族は「ビザの件」と勘違いしたようで、実際は、「リストラの件」だったようです。外務省の三分の一がリストラの対象となり、外交官は諜報員でしたから、戦後の日本に諜報員の居場所はありませんでした。
 杉浦千畝の行動が、長い間、外務省に無視されたのは、日本がアラブ諸国から石油を輸入しているからで、反イスラエル勢力への配慮と考えていいでしょう。鈴木宗男や宮沢喜一は、逆に、戦後のアメリカの親イスラエルへの擦り寄りでしょう。


 ユダヤ人と日本人は、「日本人は民族差別をしない」という一点で、強い絆を築いてきました。それは、これら三人の行動となって現われましたが、決して、個人の問題ではありませんでした。日本はそういう国だったのです。人種平等が国是でした。
 過大に杉浦千畝がもてはやされるところに、当時の日本の国策の立派なところを覆い隠し、日本を悪い国だと決めつけて、杉浦千畝を国に逆らった英雄のように捏造する反日勢力を敏感に感じている人たちもいます。何かおかしい…。
 アメリカのボストン大学のレビン教授は、杉浦千畝に会いに来て、「ふつうの人だった」と感想を漏らしています。そうです。これがふつうの日本人だった時代があったのです。それは、人種の平等を強く信じていた、先達たちの時代でした。