2017年12月6日水曜日

日本とアメリカ



 藤岡信勝「教科書が教えない歴史」の「日本とアメリカ」の章をまとめます。
 日本の歴史は、「日本は悪かった」という悪玉史観と「日本は悪くなかった」という善玉史観とふたつあって、高校生が歴史の授業で「また日本の悪口か」と嫌になるぐらい、学校では「悪玉史観」を教えられ、そう覚えないと試験に受かりません。
 日本には、「悪玉史観も善玉史観もとらない」で、実証的な歴史研究を行い、タブーにとらわれずに自由に論じようという立場もあって、そのような考え方を石橋湛山のような自由主義者がとりました。自由主義史観と言いますが、司馬遼太郎が同じ立場をとったために「司馬史観」とも呼ばれます。事実を論じる立場です。

 日本とアメリカの歴史は、ペリー来航に始まります。ペリーは、「日本が鎖国の国法に盾に通商を認めないなら、その罪は大きい。我々は武力によって、その罪を正す。国法を盾に防戦しても、こちらが勝つに決まっている。降伏する時は、送っておいた白旗を掲げよ。」という書簡とともに白旗を送って来ました。このような「砲艦外交」が国際社会ではあたりまえの弱肉強食の時代でした。日本は「白旗」の屈辱的な意味を知りました。
 国務長官クレイトンの「艦隊は直接江戸に向かい、将軍か幕府の長と面会せよ。下級武士とは話すな。」という意見書と、ペリーの行動は一致したものでした。「もし回答がなければ、祖国が侮辱されたものとみなす」と、すべては日本側の責任とするというのも、アメリカの姿勢でした。そして、92年後の1945年8月14日、「我々は初めて、ペリー以来の願望を果たした。もはや太平洋に邪魔者はいない。中国大陸の市場は我々のものとなるのだ。」とニューヨークタイムズは報じました。ハワイ、日本、中国の征服は、アメリカのマニフェスト・デスティニー(明らかな運命)、世界戦略でした。

 一方で、日本人はよくアメリカに学びました。ペリー来航の三年後、薩摩藩と佐賀藩は見よう見まねで蒸気船作りを始め、7年後には、自前の咸臨丸で、勝海舟、福沢諭吉をアメリカに送りました。副島種臣は、ペリーのやり方を教えてもらって、李氏朝鮮と「日朝修好条約」を結びました。アメリカに学んで、小学校制度を始め、瞬く間に12000校の学校を作りますが、アメリカ人から「児童教育は女性の先生の方がよい」と聞いて、東京女子師範学校(お茶の水大)を開校しました。
 日露戦争もアメリカに仲介してもらいました。日本がロシアの植民地となるか、独立国として生き残れるかの戦いでしたが、やっと日本海海戦に勝利した時には、国家予算を八年分使い切り、補充する兵もなく、25万の日本兵は疲れ切り、弾丸もありません。満州には新手を加え、80万のロシア兵が結集していました。金子堅太郎が、友人ルーズベルトに講和の仲立ちを願い、厭戦気分となっていたロシアと、1905年ポーツマスで講和しました。ロシアが樺太の南半分を譲り、日本は賠償金の要求を撤回しました。
 ポーツマスの講和会議の時に、ロシアが清国から借りていた「南満州鉄道の利権」を譲り受けました。高い利益が見込めるものでしたが、戦費を使いすぎたために、経営資金の見通しがつきません。その時に、アメリカの鉄道王のハリマンが、政府に共同経営の話を持ち掛け、多額の戦費をハリマンから借りていた政府でしたが、桂太郎首相と政財界は大歓迎しました。しかし、講和会議から帰ってきた小林寿太郎は、「兵士の血を流して得た権利を外国に売るのか」と大反対をします。もし、ハリマンの申し出を受けていれば、満州利権が日米戦争の争いの種となることは避けられていたかもしれません。

 日露戦争が終わるころ、多くの日本人がアメリカに移住し、勤勉に働き、土地を手に入れて農産物を作ったり、商店を始めたりしました。しかし、その勤勉さが白人の憎しみを買いました。一日2ドルの仕事を、日本人は1ドル半で行ない、アメリカ人よりも上手にこなします。「排日運動」が始まり、「日米戦争」を予測する本もたくさん出ました。1913年には、カルフォルニア州で、日本人の土地を没収する法律ができました。しかし、石橋湛山は、「立場が逆なら、日本も同じことをするだろう」と、冷静な対応を求めます。
 ウイルソン大統領は、第一次世界大戦後、「国際連盟」を提唱し始め、1919年のパリ講和会議で創設されます。その時に日本は、牧野伸顕(大久保利通の次男)代表が、「人種平等案」を提出します。アメリカに移住した日本人の迫害が背景にあり、黒人も期待していました。しかし、11の賛成、5の反対で否決されます。「これまで多数決で決めて来たではありませんか」という問いに、ウィルソンは「このような重要な問題は、全員が賛成でないとだめだ」と答えました。通ってしまえば、アメリカの人種問題が大変でした。

 日本は生糸を主に輸出していました。お客さんはアメリカでした。ところが、1929年にアメリカは大不況に襲われます。アメリカは輸入を制限したため、日本の生糸を産出する農家は、食べるにも困って、娘さんを身売りに出しました。人々は政府を見限り、満州、中国中央部に軍事拡大する軍部に声援を送ります。電球という工業製品も輸出し始めていましたが、イギリスは高い関税をかけて来ました。日本は孤立し、自給自足の道を模索するしかありませんでした。戦後、「自由貿易」(GATT)の仕組みができました。
 日本は経済封鎖をされて、死を待つか、植民地となるほかはなく、自己防衛のために戦争を始めました。1941年の12月にイギリス領マレー半島とアメリカ領ハワイに攻撃を仕掛けますが、日本が宣戦布告をしなかったとして、アメリカは日本を憎んでいます。「リメンバーパールハーバー」(真珠湾を忘れるな)というのです。しかし、宣戦布告はしていたのです。アメリカの日本大使館が、人事異動の送別パーティーをやっていて、大使館に送った電報に気づくのに遅れたのです。25分前に届けるはずの宣戦布告は、真珠湾攻撃の85分後に届けられ、後世に残る大悲劇となりました。この時の責任者は、責任を問われることなく出世しています。彼らを処罰しておれば、これほどの憎しみはなかったのです。

 1945年4月12日にルーズベルト大統領が急死しました。もし健在ならば、日本は徹底的に破壊され、アメリカとソ連で、日本は南北に分断統治されていたでしょう。ふた月前の2月に、ヤルタで、ルーズベルトはスターリンと、2-3か月後にソ連が日本を侵攻するという秘密協定を結んでいました。しかし、ルーズベルトは死に、ソ連はまだ侵攻せず、5月にドイツが無条件降伏します。その翌日、国務長官グルーは、「ソ連の対日参戦」と「アメリカの原爆開発」という驚くべき事実を知ります。
 日米開戦時の駐日大使であったグルーは、日本とアメリカの戦争を止めようと努力した人でした。今回も、何とか日本を破滅から救おうと、日本を壊滅した後に行なう「声明」を、事前に警告として行ない、それを受諾すれば壊滅は免れるようにしようとしました。そして、7月26日に、グルーの努力によって、「受諾しなければ、迅速かつ完全な破壊あるのみ」というポツダム宣言が出されました。日本の対応が遅れたため、原爆となりましたが、ソ連の本土侵攻は避けられたのです。ポツダム宣言は、無条件降伏ではなく、「降伏の条件は左のごとし」と明記された、有条件降伏でした。

 ルーズベルトは、極東に紛争を残そうとしました。ポツダム宣言受け入れ後、ソ連は千島列島を占領しますが、それは「戦争に勝っても領土を拡大しない」という合意に反したものでした。しかし、スターリンに、「あなたの国が太平洋への出口を必要としていることは分かっています」と言って、ソ連参戦の見返りを約束したのはルーズベルトです。ルーズベルトの部下は、「千島列島は昔から日本の領土です」と言いましたが、彼は耳を貸しませんでした。けれども、そのソ連と中国の間にも、紛争の種を蒔きました。
 1943年のエジプトのカイロの会議でも、蒋介石に「沖縄を欲しくはありませんか」と声をかけ、「沖縄は長い間日本の領土です」と辞退されています。ソ連、中国、日本の間に領土紛争が起きるように仕向けたのです。その理由を、「戦争が終わり、平和になっても、いずれは国同士の対立が生まれる。将来、極東の三大大国が団結し、アメリカをこの地域から締め出すかもしれない。それを防ぐため、三国の間に争いの種を蒔いておいた方がよい」と、ルーズベルトは語っています。これが、アメリカという大国の優れた指導者の姿なのです。よく知っておくべきことです。

2017年11月17日金曜日

米中、もし戦わば






 ピーター・ナヴァロの「米中もし戦わば」を読みました。昨年の11月30日に発行された本で、その時点で、この本の結論では、米中開戦の確率は70%でした。それは、既存の大国に新興国が台頭してきた場合の戦争の確率です。
 その後、トランプ大統領の誕生で、確率は激減、北朝鮮のミサイルと習近平国家主席の権力の確率で、確率は再び上昇、今は、70%以上かなと、私は思います。そのような高い確率で米中戦争が起きるとしたら、「どのように防げるか」が、この本のテーマです。

 翻訳した飯田将史は、大戦後初めて強力な軍隊を持った国が覇権を現わして来たことに自衛隊も対応し、2000年以降、対ソ連のための北海道重視の配置だったものを南西地域重視の配置に変えて来た、と言います。
 決定的事件は、2008年の12月に中国の政府公船が尖閣の領海に侵入した時でした。その後、民主党政権(2009-2012)になって、「尖閣諸島中国船衝突事件」(2010.9.7)が起きます。それは、中国のアジアの侵略の動きの一部にすぎませんでした。

 1996年、中国は台湾の総統選挙で李登輝が選ばれるのを防ぐために、台湾近海に弾道ミサイルを撃ち込みますが、アメリカが空母を出して来たために、刀を鞘に納めます。しかし、それ以後、「空母キラー」と呼ばれる対艦弾道ミサイルの開発を進めます。この安価な非対称兵器は、高価な空母を沈められるので、アメリカ軍の脅威となっています。
 中国は鄧小平の重商主義が行われて後、急激に成長し、人口が著しく増えました。そのため、フィリピン、ベトナムの島々を奪い、自国の海域を広め、商業のための海路を確保し始めました。まず、「これはもともと中国領だ」と地図を書き換え、漁民船を送り込んで、「サラミ戦術」と呼ばれる、少しずつ相手の領海を切り取る作戦で、領海を拡大させて来たのです。

 1985年以降、尖閣諸島は日本の領土でしたが、1960年代に大量の石油、天然ガスが眠っているという国連の調査を受けて、「ここは中国の領土だ」と中国は言い始めました。2010年の尖閣諸島中国船衝突事件は、中国全土を巻き込んだ「反日運動」となって、100都市以上に広がり、同盟国アメリカを巻き込んだ戦争になるのではないか、とアジア諸国を不安に陥れました。
 日本の自衛隊は、中国機の活動が活発化し、スクランブル(緊急)発信が増えると、福岡の築城(ついき)基地のF15戦闘機を沖縄に移転し、潜水艦も16から22隻に増やして、情報収集と偵察監視を向上させ、イージス艦を改修して弾道ミサイルの迎撃に備えました。空自の司令部も、2012年以降、横田の米軍に移転し、陸自も在間の米軍キャンプに移し、日米共同で対応しようとしています。

 中国は、「私たちは平和的な台頭を望んでいるだけだ」と言い、オバマ大統領は諸手を挙げて賛同したのでした。しかし、中国を信頼したアメリカは、何度も裏切られる経験をします。結論として、「中国は悪意をもって嘘をつく」と気づき始めています。それは、今も韓国の大統領、北朝鮮の独裁者にも言えることで、合意や条約締結が意味をなさないのです。
 「中国がアメリカを犠牲にして台頭することを阻止しなければならない」―アメリカは、その姿勢になっています。 オバマ大統領は、「アメリカは世界の警察官ではない」と言い、そのために無秩序な群雄割拠の世界を作ってしまいました。テロが横行し、中国が台頭し、北朝鮮が暴れ、それぞれの国が、「警察がいないのなら、自分が強くなるしかない」と動き始めたのです。

 オバマはフィリピンに酷いことをしました。中国がスカボロー礁に2012年に侵入し、奪おうとします。中国領と認めなければ、フィリピンの製品を輸入せず、中国人の旅行者をフィリピンに送らないと脅してきました。アメリカが間に入って、スカボロー礁から中国漁船もフィリピンの警備船も撤退するように命じ、フィリピンは撤退しましたが、中国船は居残って、実質上、中国領にしたのです。
 オバマは中国の横暴に何も言えませんでした。アメリカは弱いと思われていました。1988年には、ベトナムから、「南沙諸島は中国固有の領土」と言って、ベトナム国旗を掲げて侵略に抗議するベトナム兵、60人以上を虐殺し、ケナン礁、ヒューズ礁など6島を実効支配していました。その後、1994年には、モンスーンの時期を狙って、中国海軍が入り込み、建物を建てて、フィリピンのシスチーフ礁を奪いました。このためフィリピン軍は中国軍を恐れており、アメリカは無力でした。

 中国の立場に立てば、1939年のアヘン戦争から始まって、中国はフランス、イギリス、日本、ロシア、アメリカによって侵略されて来ました。それまでは、中国はアジアの宗主国で、朝鮮も台湾も沖縄も、中国に貢ぐ国でした。この「屈辱の100年間」を中国は忘れたことはなく、その中でも、日清戦争と満州事変を行い、朝鮮と台湾の主権を奪った日本を恨んできました。
 1949年に、中国は新しく建国されました。68年の歴史を持つ共産党の独裁国家です。その時点で、中国は後進的な農業国でした。貧しいけれども、自国ですべて賄える国でした。しかし、共産主義は失敗し、数千万の国民を死なせ、さらに文化大革命で反乱分子を数千万殺し、国土が疲弊した中で、鄧小平が経済的な革命である「第2の革命」を行います。重商主義国家となりました。
 
 商業ルートを確保するために、中国は同盟国を次々に裏切っていきます。1979年に、ソ連と同盟を結ぶベトナムを、「ソ連は中国の敵だから」という理由で侵攻し、中越戦争がはじまります。中国は6万人の戦死者を出し、失敗に終わります。その後、先ほど見た南沙諸島をベトナムから奪い、同盟国のフィリピンからも領海を奪い、日中友好にあるはずの尖閣に手を付けたのです。
 中国が同盟関係にある国を攻撃することは、1950年の朝鮮戦争で国連軍を奇襲攻撃し、数千のアメリカ・韓国兵を殺したことに始まり、南ベトナムのフランス軍を駆逐して北ベトナムを支援したこと、1952年にインドに侵攻し、インド領のアルナーチャルプラデーシュ州を自国領の南チベットであると主張し、1962年には、同盟国のソ連に奇襲攻撃をかけ、ソ連は「もう少しで中国に原爆を落とすところだった」と怒りをあらわにしました。同盟国を攻撃するのが中国なのです。

 アメリカは中国を甘く見ていました。ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官は、「敵の敵は友」の原則通りに、ソ連の敵である中国と組むことで、ソ連の力を弱体化できると考え、1972年に中国とピンポン外交を始めました。そうすれば、北ベトナムをパリ講和会議に出席するよう説得してもらえ、ベトナム戦争も終結できると考えていました。2年後に、中国は弱体化していた南ベトナムから西沙諸島を奪い、その一年後にベトナム戦争は終結しました。
 周恩来は、その見返りに、経済制裁を解除し、世界経済に参入させるようアメリカに求めました。そして、WTO(世界貿易機関)に中国が加盟するようになります。ビル・クリントンは、「中国を受け入れれば、世界人口の五分の一を擁する国がアメリカの市場として開かれるのだ。アメリカ製品が中国で販売できる。」と議会で演説し、加盟を許しました。とんでもない判断でした。

 2001年に中国がWTOに加盟すると、アメリカの大企業は生産拠点を安価な労働力の得られる中国に移し、そのためアメリカの七万の工場が閉鎖に追い込まれました。失業者、非正規雇用の労働者は2500万人にまでなりました。アメリカの対中貿易赤字は、年間3000億ドルに達し、今では、数兆ドルに達しています。アメリカは中国に呑まれてしまいました。
 それでも、アメリカは「中国に門戸を開けば、中国は民主化するだろう」と甘い考えを持っていました。しかし、中国は自国を富ませ、アメリカを貧困の中に追い落としただけでした。中国は、鄧小平の重商主義以降、輸出を保護し、国内市場を外国に閉ざす方針を続けてきました。そして、30年間、毎年、10%成長を続けてきた国です。かつての農業国は、「世界の工場」となって、アメリカを抜いて世界一の経済大国となったのでした。

  民主主義のアメリカは貧乏な「かつての大国」となり、独裁主義の中国は豊かな「これからの大国」となった時に、アメリカ国民は能無しの指導者たちに任せておれないと、もう一度、強い、豊かなアメリカをと、トランプ大統領に望みをかけたのでした。中国に民主化は起きません。異議を申し立てる者は、「労働改造所」と呼ばれる強制収容所で殺されるのです。サイバーコップ軍団がインターネットを監視し、取り締まるだけでなく、プロパガンダとして利用しています。
 その立ち上がる竜、中国が、傷だらけの大国アメリカに対峙しています。 トランプ氏は、「マッドマンセオリー」で挑んでいます。これは、ニクソンがパリ会議の時に側近に、「戦争を終わらせるためなら、ニクソンはどんなことでもやりかねない男だと信じさせてくれ。『お願いだ。ニクソンが共産主義嫌いだと分かっているだろう。怒り出すと手が付けられない。核のボタンを押しかねない男なんだ。』と口を滑らせればいいんだ」と頼み込み、怒った顔で会議に臨んだやり方です。

 相手は、「公然と約束を破る国」中国です。「話し合い」だけで済む相手ではなく、先の二つの大戦が、「互いに協力しよう」という善意が誤解されて始まった戦争だ、ということを知る必要があります。アメリカは、カードをすべて相手に見せて交渉する「透明性」を大事にしますが、中国は、自分のカードを隠しておくことで、相手をやっつける「不透明性」を大事にします。そして、この「不透明性」のために、アメリカは身動きができない状態にあります。
 対峙しているのは、凶暴な大国中国と、凶暴だった大国アメリカです。アメリカも、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク侵攻、ボスニア、カンボジア、リビア、セルビア、シリヤの空爆を行い、コソボで体制を変え、パキスタン、ソマリやで無人機攻撃を行い、ジブチ、エルトリア、エチオピア、ジョージア、ケニア、イエメンに戦闘部隊を送り込みました。中国とアメリカの対峙は、アッシリヤとバビロンの対峙のような、独裁主義と民主主義の違いはありますが、凶暴な国の対峙です。

 衰えつつあるアメリカは、この戦いに乗り気ではありません。アジアからの徹底を多くの国民が望んでいます。「もうたくさんだ。世界中に、アメリカの私たちよりも豊かな国はたくさんあるじゃないか。近所に無法者がいるからって、どうしてアメリカが守ってやらなきゃいけないんだ。彼らは十分に豊かだ。自分のことは自分で守ったらいいんだ。」
アメリカはモンロー主義の国、独立、いや、孤立を望む国なのです。二つの大戦は、アメリカを戦勝国にして、その後の世界秩序の責任者のようにしてしまいました。警察官として行動していく中で、ベトナム戦争以後は、何もかもうまく行かず、戦争はアメリカの経済をひどく衰えさせました。多くのアメリカ人は、アジアのことに関心もないし、かかわりたくもないのです。

 けれども、警察官をやめられない、大きな理由があります。北朝鮮の核はアメリカの西海岸を狙っています。中国は、ハワイで領海を二分すればよいと言いますが、ほんとうに「アメリカと中国の二大大国による世界」で満足するでしょうか。何をするかわからない、約束を守らない国です。そして、今まで、アジアの平和と繁栄は、アメリカの存在で守ってきたのです。
 日本は、アメリカが手を引いて、核の傘を外せば、サムライの国ですから、むざむざ中国に虐殺される道を選ばないでしょう。一日あれば、核兵器を製造できる技術を持った国です。北朝鮮、中国に核兵器で対抗するに違いありません。今中国は、アジアで紛争が起きた時に、アメリカが駆け付けられないとタカをくくっています。核戦争の危機があります。また、核を持った国同士は、核戦争以上に、通常戦争を行う可能性が高いのです。

 中国が約束を守らない国であり、悪意を持った国であることが分かっている以上、アジアの危機を見過ごすことは、アメリカの危機を招くことになります。戦争の危機を防ぐ方法は、「力による平和」以外、いかなる選択肢も残されていません。アジアの緊張が高まっているのは、文化的な行き違いや、中国の意向の誤解や、戦略上のミスではありません。中国は、覇権を追求し、領土を求めています。アメリカが孤立主義をとれば、紛争は悪化するだけです。
 中国は、ソフトパワー、ハードパワー、両面からの「総合国力」をつけようとしています。アメリカも、総合国力を身につけなければ、中国の侵略に全く無防備になってしまいます。それは、「強い経済」「質の高い技術者」「正常に機能する政治体制」を持つことです。その上で、狼が戸口に迫っているときには、「強い軍事力」が最後の砦となります。

 アメリカが「戦争を防ぐ」ためには、「強力な軍隊」と「強力な同盟関係」によって、敵国に対して、「アメリカは本気だ、最後の手段として、実際に武器を取るだろう」と、相手に信じさせることが大事です。アジアの国々は、オバマの失態によって、「アメリカにはルールを守られる力がない」と感じています。だから、「自分でルールを作るしかない」と思っています。けれども、「なぜ、アメリカは助けてくれないのだ」とも思っています。アジアが中国に呑まれれば、次はアメリカなのです。
 私たちは、中国製品を買うごとに、中国の軍事力を増強させているのです。アメリカは、巨額の貿易赤字を抱えており、資源も、技術も、中国に盗まれているのです。中国は、「互いに栄える」ことは考えない国です。アメリカを攻撃するための武器を作らせるようなことはもうやめましょう。中国製品は、何も買わないことです。日本でも、中国製品があふれかえっていて、「中国製品しかないから」と買う人が多いのです。これは戦争なのです。中国製品は買わない。

 税制を変える必要があります。あまりに法人税が高いので、アメリカの製造業はどんどん海外に流出しています。アメリカに企業を戻し、雇用を戻すようにすべきで、そのためには税制を変える必要があります。また、機密がどんどん中国に盗まれていて、軍用と民間の知的財産権が保護されていません。日本は特定秘密保護法案を作りましたが、中国に技術を盗ませるような真似はさせないことです。教育制度も改革し、奨学金という負担を負わせずに、将来の技術者を育てることです。
 経済の健全化を早急にしなければ、中国に対抗などできません。敵に侵食されないためには、アメリカ本国をまずきちんとしておくことです。宇宙計画ももう一度軌道に乗せるべきです。アメリカは、宇宙を中国に奪われていて、アメリカの衛星を撃ち落とされれば、中国の攻撃を防ぐことはできません。第五世代のF35攻撃機を増産し、長距離爆撃ができる体制を整えることです。ただし、「これらの兵器を製造することは、これらを使用するためではない」のです。「あなたが戦力を増大させるなら、こちらも同じようにする」という原則を見せることが大事です。

 「弱さ」というのは、いつも「侵略」のために招待状となります。弱いアメリカは、同盟国を守れないアメリカです。誰も信頼してくれないでしょう。強いアメリカは、同盟国を守るアメリカです。紛争を抑止できる可能性がはるかに高まります。30万の兵士をアジアに派遣しているのです。「アメリカに見捨てられた」と、アジアの人々に思わせてはなりません。軍隊を常駐させているだけではだめです。「あなたを守ります」という姿勢を見せることです。
 アメリカ国内に、「中国はアジアの安全保障にとって大きな脅威になる」という政治的な合意が必要です。アップル、ボーイング、キャタピラー、ゼネラルモーターズ、IBMなどが、中国に生産拠点を移し、アメリカ市場に輸出をして、大儲けをしています。彼らはロビイストを雇って、「中国は脅威ではない」と主張しています。アメリカのメディアは、中国に取材を許してもらうために、中国の圧力に屈しています。このような不健全な状態を、まず健全にしなければなりません。

 1991年にソ連が崩壊し、アメリカが世界の警察官となって、海のパックスアメリカーナ、「アメリカの平和」を築きました。すべての国が、国際海上通商路を自由に航行できるようになりました。その航路は、アメリカの艦隊がパトロールしています。中国も、この自由航路を用いて繁栄を築いてきました。その中国が、独自のルートを作って、「中国の平和」を築こうとしています。それは、ほんとうの平和につながるのでしょうか。GDPの半分が貿易関係に依存する中国が、まず狙っているのは制海権です。日本の制海権も、最近は中国の侵入が激しくなっています。









2017年11月11日土曜日

朝鮮人慰安婦と日本人







 吉田清治「朝鮮人慰安婦と日本人―元下関労報動員部長の手記―」を読みました。

 1977年の発行ですから、朝日新聞から「朝鮮の女性 私も連行 暴行加え無理やり」(1982年)という同氏の記事が出される5年前の著作です。この著作では、済州島ではなく、下関市の大坪の朝鮮人女性を、強制連行ではなく、「女子挺身隊」と騙して、慰安婦にしたと書かれています。

 あとがきには、「朝鮮民族に、私の非人間的な心と行為を恥じて、謹んで謝罪いたします 吉田清治」とまで書かれていますから、 あくまでも事実であったかのように、ノンフィクションの体裁をとっています。戦後30年以上が過ぎて、なぜ、自分の悪事を告白するのかと言えば、

 「今の日本では、在日の人々が排斥され、差別され、侮蔑され、難民生活を強いられているから」「日本人の母親は在日との結婚を子どもに許さず、父親はアパートや借家を貸すことを拒んでいるから」「朝鮮の高校生を、日本の高校生が登下校時に襲い、傷害を与えているから」

 と言っています。日本人は、道徳性、人間性を失ってしまい、明治維新以来、欧米の植民地思想を受け継いで、他国を侵略する民となってしまったからだ、というのです。吉田氏は、在日への排除思想を改めて、残忍性のない仏教思想に戻り、人類共存をするよう訴えています。

 この著作の中で、吉田氏は、正義感を持った有徳な人物となっています。満州の役人だった時に、義侠心から、一歳年下の朝鮮人を養子にしています。両親も親戚もいない吉田氏は、養子にした朝鮮人に日本人の嫁を娶らせますが、結婚式の四日後に、日本国籍を持ったがために、彼に召集令状が届きます。「何で自分でなく、彼なんだ…」―翌年、新妻を残したまま、彼は戦死します。

 息子となった朝鮮人は、9月1日に戦死しました。それは、彼の父親が、関東大震災の時に、日本軍に殺害された15年前の9月1日と同じ日であった、というのです。父親も子どもも、日本軍のために殺されたのでした。意気消沈した吉田氏は、満州の役人をやめて、中華航空の上海支社の営業所主任となります。東京の大学を出ていますから、いつでも要職に就きます。
 
 実際は、吉田氏が大学を出た記録はなく、高校の記録でも、同名の人物は死亡しているようで、吉田氏の過去を知ることは困難です。けれども、要職に就いたと言います。 中華航空にいる時に、後に「韓国の父」と呼ばれる「金九」を搭乗させたとして、憲兵につかまり、軍法会議で有罪となって、2年間服役します。出所すると、山口県労務報国会の下関支部の動員部長になります。

 出所してすぐに部長になれるんだ…この「労務報国会」に吉田氏がいた記録はなく、「下関肥料株式会社」の取り締まり役として、労務報国会の肥料をお百姓さんに回していたことは分かっています。その会社もすぐに倒産して、借金取りに追われていたこともわかっていますが、この著書では、吉田氏は労務報国会の動員部長として、「朝鮮人狩り」をしたと言っています。
 
 「労務報国会」は日雇い労働者の現場監督をする組織で、徴用などはできないはずですが、吉田氏が部長となって、西日本一の在日朝鮮人の徴用者数を獲得したと言います。吉田氏によると、1943年から、軍が朝鮮人の徴用に関与し始めた、と言うのです。この年に、鳥取の大地震がありました。その復旧工事のために、吉田氏は軍に協力し、50人の朝鮮人を徴用することになります。

 その時に、吉田氏が言うのは、関東大震災で日本軍が朝鮮人を殺したから、震災と聞くだけで、朝鮮人は殺されると思ってしまう。それで、朝鮮人狩りで集めた朝鮮人の15人を、日本人の10人と引き換えにして、日本人を鳥取に送ったのでした。朝鮮人狩りの方法は、昼間に出頭命令書を渡し、家族がかばうので、夜になって忍び込んで、懐中電灯で照らして、捕まえたりしました。

 朝鮮人はとてもおとなしく、すぐに捕まえられました。日本人は、アメリカやイギリスの捕虜を「毛唐」と呼んで卑しめましたが、日本人の目の届かないところで、アメリカやイギリスの捕虜を優しくいたわっていたのは、朝鮮人でした。朝鮮人は、今も昔も、羊のようにおとなしく、優しい民族でした。しかし、日本人には奴隷のように扱われ、ほとんどの朝鮮人は狩り出されてしまいました。

 捕まった朝鮮人は、チョークで背中に赤丸を付けられ、ステッキで小突いて、前に並ばせられました。家畜を扱うように、「痩せたのしかいないけど、我慢してくださいよ」と、取り引きされました。家族と別れの挨拶をしようものなら、ステッキで打ち叩かれました。病気で死ぬ朝鮮人もいました。吉田氏は、「労報死」として、自分の権限をもって、そのような者には特別な葬儀を行いました。

 「ありがとうございます。立派な葬儀にしてください。」

 そう言って、朝鮮人は、吉田氏の暖かな心遣いに感謝するのでした。やがて、朝鮮人狩りは、朝鮮本土でも行うようになりました。海軍の徴用のためでした。大邱市に大邱神学校がありますが、危険思想を持つ者として処罰するよりは、海軍に入隊させたほうが良い、となりました。また、大邱の地方の部落に、警察の護送車を走らせて、人家を見つけると狩り出しをしました。「役所の仕事だ、金になるぞ」と言うのですが、抵抗すれば、平手で打つ、木剣で脅す、ステッキで小突きました。

 挑戦狩りをする動員部隊は、士気が盛んでした。まるで出征するかのような意気込みでした。朝鮮人を捕まえて、「お前は幾つだ」「15歳です」と答えるので、「それじゃ使えんな、帰ってよし」と言うと、その少年が「さようなら」と言ったので、みんな、噴き出して笑いました…吉田氏のこんな話を読んでいて、なんでおかしいのか、気が変なのか、と私は思ってしまいましたが…。

 延々と、朝鮮人の徴用の話が続きますが、動員部隊の人たちは、「21歳か、若くていいのが見つかったね」「今日は大漁、大漁」とはしゃぎながら、狩りを楽しんだのでした。そんなことをしてしまったと、吉田氏は反省の意味で書いているのでしょう。集めた朝鮮人は、198人、「南太平洋方面海軍作業愛国団」として、海軍に入団しました。…奴隷みたいに集められた人が、海軍で使えるのか、私にはわかりませんが…。

 そして、ついに、吉田氏自身は「腹立たしい」と言うところの「女子挺身隊」の徴用が始まりました。吉田氏は、潔癖な人柄なので、売春にかかわる仕事はしたくないし、売春婦というだけで、不潔で、嫌悪するのでした。しかし、日本軍のための慰安婦は不足しており、日本人の遊郭には年配の女性しかいないため、若い朝鮮人女性が喜ばれるのでした。

 1944年に、山口県知事が、女子挺身隊の動員命令を、月30円の報酬で公示しました。この記録も怪しく、実際、慰安婦を想定していたのか、この公示が史実なのかもわかりません。「女子挺身隊」=「慰安婦」という図式も、吉田氏のこの記述から始まっているのかもしれません。女子挺身隊は、慰安婦の働きはしなくて、ふつうに銃後の作業をしていたからです。また、慰安婦ならば、月1000円はもらえたと、米軍の記録にあるようです。

 吉田氏は、女子挺身隊と騙して、慰安婦を動員した、と証言しています。彼がそういう組織の部長であったこと自体があり得ないのですが、ともかく、「傷病兵の洗濯奉仕程度の軽作業」「軍の雑役婦」と騙して、月30円という報酬を前面に出して、女子挺身隊を募って行ったと言います。支那の海南島に送られるとは言いづらかったので、「対馬の陸軍病院」で働くと騙しました。今、対馬は韓国人の島になってしまいましたが、こんな嘘があったとしたら、その罰かもしれません。

 吉田氏は、若い女ばかり、朝鮮人を100人集めて、「朝鮮人女子挺身隊」として、彼女たちを支那に送ったと言います。「対馬だったら」と、親も娘を送り出します。16歳の娘もいましたが、平均は18歳でした。「海南島に着くまで、秘密にしておかないと、身投げでもされたら困る」と、すべて騙し切ったのでした。このように、若い朝鮮人女性を騙して、支那にいる日本軍に慰安婦として送ったと、吉田氏は謝罪をしている…これが、この本のクライマックスです。今、「少女像」が世界中にばらまかれているのも、吉田氏の「16歳」によるのかもしれません。

 吉田氏の著書は、私が読んでいても、気がおかしくなるぐらいに信憑性が全くないのですが、今の慰安部問題の発端となり、根拠となっていることも事実です。嘘がまかり通っています。その嘘をちゃんと聞いてあげることも大事かな、と思います。けれども、日本人は嘘は嫌いですし、聖書は「隣人に対して、偽りの証言をしてはならない」と命じています。しかも、嘘を「ほんとう」と言って通そうとするのですから、これは赦し難い罪です。 慰安婦問題は、実に赦し難い嘘です。


 




 

2017年11月3日金曜日

天皇の平和、九条の平和






 小川榮太郎「天皇の平和、九条の平和―安倍時代の論点―」を読みました。日本人は、「平和とを尊び、性善説に立つ」民族ですが、いつの間にか、それを「憲法九条」に置き換えてしまいました。憲法九条は、「殺されても仕方がないから、あきらめろ」という趣旨の法律なので、隣国に、日本に対する「悪意」を持つ国が三つもある場合、日本の存続そのものが困難になって来ます。


 日本の平和の鍵になるのが「天皇」で、憲法の初めの部分を占めています。天皇の歴史は、四つの時代を経て今に至っています。まず、①古代天皇―仁徳天皇の逸話にあるように、「民安かれという心で、民とともにある天皇」「心の優しい天皇」という、素朴な在り方をなさっていた時代です。次に、②文化天皇―平安時代から武家政権の日本まで、天皇家は受難の千年間を過ごしますが、「世の中を正常に戻す」という使命のもとに、祈りのシステムを完成しました。

 さらに、③君主天皇―明治憲法下で、「いてくださるだけで尊い天皇」という人格的な権威としての天皇で、契沖や本居宣長らが、水戸学、国学のもとに築いた「尊王思想」によって、日本の中心にいます「君主」となりました。そして最後に、④象徴天皇―今の天皇は、憲法のもとにある、「権力を持たない、理念としての権威」をお持ちになる、日本国のシンボルであられます。

 象徴天皇が生まれたのは、GHQによる「天皇の弱体化」政策によりました。それは、①天皇の神格の否定、②皇室財産の没収、③華族、貴族の解体による皇室の縮小、④宮内省の解体、⑤天皇の地位の法的な保障のはく奪、を行いました。しかし、①は難しく、日本国民は、天皇を「神さまのように尊敬」しています。それで、地位を低め、皇族を減らし、財産を奪うことになりました。

 天皇家に生まれる子どもは、女の子が9人続いたこともあり、悠仁殿下がお生まれになって、やっと後継者が細い糸でつながります。125代続いた天皇の血筋は、途切れそうになっています。かつて、道鏡という男が、称徳天皇に「道鏡が皇位につくべし」という宣託を示して、天皇になろうとしたことがありました(宇佐美八幡宮神託事件)。しかし、称徳天皇が神託を退けて、事なきを得ました。天皇の地位を悪用し、権力を握ろうとすることは、「男系」の血筋が守ってきました。

 昭和天皇は、「君臨すれど、統治せず」の原則を守ってきました。平安時代以降、天皇が実権を持ったことはありませんでした。明治天皇が「大元帥」となられたのも、日本人の中に、「天皇は日本人全体の家長である」という共通の思いがあったからでした。しかし、この「天皇家」そのものの存続が問われている…今上天皇は、「高齢化社会となった今、譲位の制度を確立しなければならない」という思いで、談話を発表し、マスコミは「生前退位」と、酷い言葉で報道しました。

 今の日本は、平均寿命が80歳という、あり得ない社会となりました。昭和初期まで、日本人の平均寿命が50歳を超えたことはありませんでした。それは、元気な時代が80年続くのではなく、寝たきりで10年、20年と人が生きる介護の時代の到来でした。天皇は激務です。日本と世界の安寧を祈り、微笑みを絶やさず、自らは威厳を持ち、世界の中でも最も尊敬される「天皇像」を、昭和と平成の天皇で築いてきました。祈りを通じて、天皇と民(アジアの人々も)は、溶け合っていました。

 天皇は民を信じました。昭和天皇は、敗戦のご聖断の中で、「自分はいかになろうとも、万民の命を助けたい。この上戦争を続けては、結局、我が国は全く焦土となり、万民に、これ以上苦悩を嘗めさせることは、私としては実に忍び難い。相宗の霊にお答えできない」と語りました。日本は降伏して大丈夫でしょうか、という問いに、「私は(日本人を)信じている」とお答えになりました。

 今上天皇も、「これからも皇室が、どのような時にも国民とともにあり、相たずさえて、この国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが、常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話いたしました。」と、その談話を閉じました。天皇が民を信じ、民が天皇を信じる―それが、日本の国体です。君が代とともに、日本が栄えますように。


 次に、日本の平和を壊すのが、日本国憲法です。この憲法は、日本について無知な、憲法の専門家でもない、敵国の数人が七日間で起草した「敗戦文書」でした。日本の復讐を恐れる敵国が、「不戦の強制」を行ったものでした。憲法を守れという護憲派は共産主義者で、彼らは、世界史上最も大量の自国民の殺害を行った者たちです。その共産主義の世界組織、コミンテルンの日本支部が、日本共産党です。今も、日本の平和を破壊するために、憲法を守れと叫んでいます。

 憲法九条は、パリ不戦条約と国連憲章をつなぎ合わせ、「永久に」という懲罰的な一言を付け加えた文章です。

 「締結国は国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし、かつ、その相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言する」(パリ不戦条約第一条)

 「すべての加盟国はその国際関係において、武力による威嚇、または武力の行使をいかなる国の領土保全、または政治的独立に対するものも、また国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも、慎まなければならない」(国連憲章第2条4)

 これを合わせると、

 「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動による戦争と武力による威嚇、または武力の行使は国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」(憲法九条1)

 と、ツギハギになるわけです。ツギハギなので、もとになっている国連憲章を読んで、

 「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して、武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が、国際の平和及び安全の維持に必要な措置を取るまでの間、個別的、または集団的自衛の固有の権利を害するものではない」(国連憲章第51条)
 
  となっていることを無視すべきではありません。国際法は、侵略戦争を禁じているのであって、自衛を禁じてはおらず、個別的、集団的自衛権を認めているのです。しかし、日本の憲法学者は、「国際法の解釈にとらわれるべきではない」と、このような文脈を無視します。そして、「武力行使はいけない」だけを主張するので、自衛隊の海外活動は、生命を脅かすほど危険になっています。「ともかくダメ」では話にならず、そのために死ななければならない人には残酷なだけです。

 憲法九条の2は、マッカーサーの原案では、「交戦の権利を、日本の戦力には、決して与えない」となっていました。「戦うことは許さない。黙って死ね。」ということですが、それが、

 「前項の目的を達するため、陸海空軍、その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」(憲法九条2)

 となっています。「交戦権」という言葉自体、国際法にありませんが、それは、自分の命を守るために戦うことは、自分の命を守るために水を飲み、空気を吸うのと同じことなので、「当然の権利」だからです。「命を守ってはならない」という言葉は、国際法にはないのです。しかし、日本の防衛白書には、日本は「専守防衛」、「他国に脅威を与えない」と、あり得ないことが書いてあります。

 強盗が家を襲おうとやって来た時に、警察は呼ばない、鍵はかけない、「やめろ!」とは言わない、強盗の側に、なされるがままになるだけで、家を守るんだといったそぶりも見せてはならない、と言っているのです。これが、バイデン元副大統領が、「日本を核武装させないためにアメリカが書いた」という憲法の正体ですが、いいえ、これこそが、共産主義者による日本の全滅をはかった文章だとわかるはずです。

 かくして、日本は弾道ミサイルを持たない、爆撃機も持たない、空母もない、自衛能力を持たない国となって、日米安保によってアメリカに守ってもらうしかない、情けない国になってしまいました。アメリカにばかりに守ってもらうわけにはいかないと、自衛力をつけようと言うと、東大の憲法学者、岩波・朝日・マスコミ、そして共産党がタッグを組んで、「軍国主義だ」「戦前回帰だ」「暗黒社会だ」と、偽りの「平和」の名のもとに、70年間、憲法を論じることさえ封殺して来ました。

 「日本には自衛する力があるのか」―それを話すこと自体、悪とされて来ました。そして、自民党も反対勢力に対して、正面から堂々と、憲法を論じることもありませんでした。安倍首相が現われ、改憲を掲げて、目標をはっきりと明言するまで、だれひとり、「日本には自衛する力がない」という危機的な状況…アメリカが守ってくれなければ、北朝鮮にも中国にも、すぐにでも滅ぼされるのだということを、隠し続けて、言葉遊び、空論を繰り広げて来たのです。

 
 愚かになってしまった、日本人と日本人の政治家たち。首相が「改憲」を口にしたことで、マスコミは総力を挙げて、安倍叩きを始め、倒閣運動に乗り出しました。「森友・加計」問題をでっちあげました。国会では、籠池夫妻が証言しましたが、詐欺師だと分かって逮捕されました。汚職で首になった前川氏が「忖度だ」と攻撃しましたが、前愛媛県知事の加戸氏が証人となって、首相に何の落ち度もないことが明白になりました。すべて、前川氏の思い込み、恨み節でした。
 
 ところが、マスコミは、間違いが明白になった前川氏の訴えを、9時間の国会審議の中の2時間半を費やして報道し、その間違いを明白にした加古氏の証言を、6分しか報道しませんでした。嘘を2時間半流し、真実を6分しか流さない…前川氏の「首相によって行政がゆがめられた」が2時間半、加古氏の「首相によってゆがめられた行政が正された」が6分…NHKも、朝日新聞も、このような極端な偏向報道を行い、ネットで真実を知っている人々の怒りを買いました。

 天皇による平和ではなく、憲法による平和…コミンテルンの工作に従って、日本を日本人の手から奪い取る勢力は、手段を選ばなくなってきました。テレビや新聞、マスコミが、改憲を妨げるためならば、どんな手段でも使うという「全体主義」の様相を呈して来ました。放送法では、放送は①政治的に公平、②真実を曲げない、③多くの角度から論点を明らかにする、となっていますが、未だに、国民の85%の支持を得た改憲派ではなく、15%の支持しか得られなかった護憲派の政党を応援する報道を流しづつけています。公然と、法を破っているのです。

 政治家は愚かになりました。民進党は、全会一致で、希望の党に入る決定をしました。けれども、希望の党の側から拒否されそうになると、衆議院が解散した後で、議員資格もないのに、立憲民主党という党が立ち上がりました。党本部もない、何の実績もない、違法じゃないかと言われるような党の結成でした。希望の党に入った議員は、安保反対も、護憲も捨てて入党しました。希望の党が伸びないと、また安保反対、護憲に戻る議員も現れます。なくなったはずの民進党が、また現れました。就職できればなんでもいい、年俸四千万を狙うサラリーマンの就職活動が、野党の総選挙でした。「こんな私利私欲の人間どもに国を任せられるか」と多くの人は怒りました。

 安倍政権は、野党の政治家たちが、国民受けをするようにとテレビ映りばかりを気にしていたのと違って、国民受けすることを拒否しました。マスコミが潰そうとした案件、歴代政権がずっと棚上げにして来た案件を、次々に通してきました。①特定秘密保護法―自衛隊員が国家機密を売りさばかないようにしました。②安保法案―アメリカの協力のもと、日本人の生命と財産を守ろうとしました。③テロ等、準備罪―日本国家を転覆しようとする勢力の資金源を閉ざして、テロ活動を難しくしました。そして、④敗戦国という呪詛から国民を救い、自信を持たせ、経済的に安定した国としました。国民のご機嫌を取って、「安倍嫌い」と叫んでいるだけの野党とは違いました。

 総理は、国民受けを求めませんでしたし、マスコミの手の内で踊らされることもありませんでした。けれども、政策決定のたびごとに、総理自ら、国民に会見で説明することは怠りませんでした。このような強い首相は、第一次安倍政権の失敗と、その後の悔い改め、やり直し…そして、試練によって強くなった、安倍氏の変化によるものです。ですから、ポスト安倍が難しいのです。自民党の中に、安倍氏のように、戦って戦って、困難の中から立ち上がった人が少ないからです。「失敗をして、そこから立ち上がった」安倍氏は、その意味で、復活の力を持っているのです。


 第二次安倍政権の業績は、あまりに多くて、しかもまだ、これからもたくさんの仕事が成し遂げられていくでしょうから、将来、日本が生んだ最高の首相として、いつの日かまとめられるでしょう。その業績のひとつは、「70年談話」でしょう。テレビで談話を聞いていた、榮太郎氏の奥様が、「英霊がほんとうに喜んでいる」と涙したそうです。安倍氏は、日本がどうして、大東亜戦争という戦争をしたのか、歴史の流れをはっきりと語って、私たちの祖父たちが「侵略戦争をした」などという、誹謗中傷を払しょくしてくれました。先人の栄誉、日本の名誉を守ってくれました。

 「侵略」(aggression)という言葉は、「侵攻」(invasion)といった軍隊用語とは全く違っていて、「ナチスのホロコーストに匹敵する戦争犯罪を行った」という意味です。それは、極めて悪質な「戦争犯罪」(war crime)を指しています。その悪質な「戦争犯罪」という言葉を、日本の学者は、「戦争責任」と訳し変えました。そして、多くの国民が、「日本はよその国に出かけて行って、侵略をしたのだから、責任はある。悪いところは素直に認めよう。」と言いますが、それは相手の国にとっては、「極めて悪質な戦争犯罪を行ったのだから、このような国は徹底的に滅ぼすべきである」という意味になっています。当然、ミサイルで海に沈めようとなるのです。侵略、戦争責任の相手国への意味はそうです。日本人の「自分も悪かった」は、相手側には全く通じない言葉なのです。

 日本人自ら、死刑に値する戦争犯罪国家であると認めるのですから、赦し難い「侵略国」に対しては、「南京大虐殺」とか、「従軍慰安婦」とか、どんな嘘をついてもいいわけです。 「自分たちは大犯罪人です、生きている価値のない国民です、煮ても焼いても結構です」と言うのですから、好き勝手をやっていいわけです。けれども、大東亜戦争は、そのような犯罪ではありませんでした。「父親は悪人だ、私も子どもたちも、どうぞ殺してください」と言うのは少し待って、「真実」を見てほしいのです。「私は悪人です、生きる価値がありません」と言っても、相手は赦しはしません。詫びる前に、そして、ミサイルが撃ち込まれる前に、「真実」を見てほしいのです。

 大東亜戦争は、①対支那戦争、②対米戦争、③対植民地(英・米・蘭)戦争、④対ソ戦争、の四つでした。①の戦争は、満州事変と支那事変に分かれます。満州事変は、ロシアが南下する中で、力の空白地帯を先取するために行われました。満州は「五族協和」の理念で建国されましたが、パリ不戦条約の締結直後で、タイミングは最悪でした。それでも、リットン調査団とうまくやっていれば、国際承認もとれたかもしれません。「侵攻」しましたが、その後の策はありませんでした。

 支那事変は、中国の指導者の内部紛争があり、日本とアメリカの利権のにらみ合いがあり、コミンテルンによる中国の赤化工作があり、複雑な状況下で起きました。昭和11年に、蒋介石が張学良に拘束されて、反共から反日に転向したため、日本の孤立を招きました。アジアの多くの国で、日本軍は評判が良かったのですが、評判の悪い地域がありました。それは、その地域の日本軍が、規律が取れていなかったためです。中国の日本軍は、あまり評判が良くなかったのです。

 アメリカとの戦争は、支那事変での利権の対立が続いている中で起きました。日本もアメリカも、中国・アジアの資源を必要としていました。アメリカは、蒋介石に資金を送り、日本と戦わせました。ソ連は毛沢東に資金を送り、日本と戦わせました。蒋介石も毛沢東も、ソ連とアメリカの代理戦争を、「反日」の旗のもとに戦いました。ついに、日本は真珠湾を攻撃し、日米戦争となりますが、アメリカは大きくなる日本を叩きたく、日本も大きくなるアメリカを叩いておきたかった。両国にとって、日米戦争は「予防戦争」「自衛戦争」でした。そして、アメリカは大きくなり、日本は小さくなりました。

 アジアでの大東亜戦争は、アジアとの戦いではなく、アジアを植民地として支配している、欧米の白人たちとの戦いでした。戦争中に植民地から独立した国もあり、戦争後は、すべての国が白人の支配から独立しました。 日本の目的も、アジアの植民地化ではなく、自由貿易ができる国として、アジアの国々に独立してもらうことでした。そうすれば、日本は資源を買うことができ、日本も平和を得ることができるはずでした。対ソ戦争は、ソ連が不可侵条約を破棄して参戦してきたもので、チャーチルとルーズベルトが、ソ連と密約を結び、参戦させたものでした。

 その後、アメリカの脅威は、ソ連と中国になります。ソ連のめちゃくちゃな大量殺人から、人権を重んじるアメリカは国民の命を守らなければなりません。共産主義と民主主義の「境界線」となったのが日本でした。日本は東西冷戦の「絶対防衛圏」となりました。朝鮮戦争では、日本の海上自衛隊も参戦し、戦死者も出ています。沖縄は、非核三原則の名目とは別に、原子力潜水艦の基地となりました。しかし、ソ連が崩壊し、冷戦が終わり、今は、中国が覇権を握るようになりました。アメリカは、日本が民主党の時には中国側につき、安倍政権になると日本側につきました。結局、強い側についてバランスを保つのです。安倍内閣が強いので、トランプ氏は日本を選びました。

 戦後70年の安倍談話は、「侵略をした」と言われ続けた歴史観を覆し、公正な目で世界史を概観し、日本の戦争を世界史の中で位置づけることで、誹謗中傷の根拠を奪った、画期的なものでした。それまでの70年間、戦勝国のアメリカも、共産主義国のコミンテルンも、「日本は狂信的な軍部の暴走によって、無謀な戦争に突入した」と、誤った歴史観を日本人に植え付けてきました。安倍首相は、「新しい国際秩序への挑戦」「謝罪の負い目を次世代に負わせない」として、日本をただ侮辱し続けたい人々から、明るい日本の未来を取り戻そうとしました。アメリカを始め、世界中の国国が安倍談話を支持しました。憎悪を向けて来たのは、中国と韓国と北朝鮮と朝日新聞でした。

 「世界恐慌が発生し、欧米諸国が植民地経済を巻き込んだ経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は孤立感を深め、外交的・経済的行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたり得なかった。こうして日本は、世界の大勢を見失っていきました。満州事変、そして国際連盟からの脱退…日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした、新しい国際秩序の挑戦者となっていった。進むべき進路を誤り、戦争への道を進んでしまった。そして、70年前、日本は敗戦しました。」
 「戦後70年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深くこうべをたれ、痛惜の念を表すとともに、永劫の哀悼の意をささげます」(70年談話、安倍晋三)

 こうして、村山談話が行ってしまった、日本を破壊するような仕業を無効としました。また、安倍首相は、日本の右翼、保守勢力に与することもなく、ただひとりで、歴史の真実を明らかにして、きちんと反省もし、 未来への道も切り開いて、圧勝したのでした。
 ただ、岸田外務大臣を遣わして行った「日韓合意」だけは、大きな失策でした。何の落ち度もなかったのに、ありもしない従軍慰安婦問題を認めて、謝罪する形になってしまいました。日本語で「苦痛を与えた」(painful)と言い、「癒し難い傷を負わせた」(incurable)と表現された言葉が、英語では、売春を認めたどころか、残虐な行為を行った印象を世界に与えました。合意自体は必要だとしても、その「文言」は間違っていました。安倍首相は、言葉をちゃんとチェックしたのか、その責任を問われています。河野談話が認められ、嘘を追認した形となってしまいました。


  今日は明治節です。明治天皇は、賢く、また日本を心から愛する君主として、明治憲法のもとにおける平和の礎を築いてくださいました。日本の平和は、この天皇の平和として、2677年間続いてきました。その土台の上に、キリストの福音を築くならば、日本はいかに平和な国家となることでしょうか。しかし、コミンテルンの工作である日本国憲法が、特に九条が、日本を奈落の底に引きずり込もうとしています。改憲派が日本人の多数を占め、皇室が確立しようとする今こそ、日本のほんとうの平和を取り戻したいものです。


 

2017年10月24日火曜日

慰安婦像を世界中に建てる日本人たち






  杉田水脈(みお)「慰安婦像を世界中に建てる日本人たち」(西早稲田発→国連経由→世界)を読みました。杉田水脈さんは、今回の総選挙で、再び衆議院に帰ってきました。自民党議員です。活躍を心から期待しています。

 従軍慰安婦問題を世界中にばらまいているアジトは、東京都新宿区西早稲田2-3-18AVACOビルにあります、キリスト教団体です。ですから、「西早稲田発」とは、ここにある反日キリスト教団体から、世界中にありもしないデマがまき散らされて、日本人を貶めているということです。

 杉田さんは、2013年にアメリカを視察した時に、元国務副長官のリチャード・アーミテージ氏たちから、「近年、日韓関係が悪化しているのは、慰安婦問題があるからではないか」と言われ、初めて事の重大さに気が付きます。それは、「子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪をし続ける宿命を負わせてはなりません」(戦後70年の「安倍談話」)とあるとおりの日本の危機でした。日本は犯罪国家の汚名を、子どもたちの代に残そうとしていました。

 そして今月、国連は、非公開にしていた「慰安婦に関する資料」を公けにしたために、私たちは、それがいかに嘘八百かを知りました。それまでに、ユネスコに提出された資料は、アメリカに建てられた慰安婦像の写真とか、元慰安婦が描いたという絵画が主だと分かっていました。西早稲田にある「女たちの戦争と平和資料館」には、昭和天皇を処刑する絵が、「赤い絵」(責任者を平和のために処罰せよ)というタイトルで掲げられています。資料の価値もないものが提出されていました。

 世界遺産にするための申請書には、「ホロコーストやカンボジアの大虐殺に匹敵する戦時中の惨劇」とありました。「ホロコーストの意味を捻じ曲げている」と、ユダヤ人協会から批判されます。この慰安婦問題は、日本の伝統と文化を破壊しようとする活動家の捏造であり、その主導権を握っているのは、日本人でした。しかも、日本基督教団の松井やよりという、東京山手教会の牧師の娘で、朝日新聞の記者が大きな役割を担っていました。

 杉田さんは、「慰安婦=性奴隷」という誤解に終止符を打つための団体、「なでしこアクション」の山本優美子代表と連携を持ちながら、女性主導の働きを始めました。というのは、男性がどんなに訴えても、「女性差別だ」と非難されるからです。「慰安婦問題」は、「女性の人権問題」として、国連に訴えられていました。国連は、すでにその役割を終え、女性差別の問題ぐらいしか、できなくなっていたからです。しかし、国連に慰安婦問題を訴えているのは、日本人でした。

 日弁連(日本弁護士連合会)、「反差別国際運動」(部落解放同盟系)、「新日本婦人の会」(共産党系)が、国連に出向いては、反日活動を続けていました。1992年には、弁護士の戸塚悦郎が、「性奴隷」という言葉を初めて使いました。戸塚氏によれば、「性奴隷という名言は、天から降ってきた」と言います。それがきっかけで、歴史的には今から70年以上も前になる、慰安婦問題が取り上げられるようになります。「法の不遡及」の原則に反した、過去に対する断罪です。

 松井やよりは、吉田清治の「私の戦争犯罪、朝鮮人強制連行」(1983)を読んで、「八万人とも、十万人ともいわれる従軍慰安婦の多くは生きて帰れなかった」と朝日新聞に載せました(1984.11.2)。これが、従軍慰安婦問題の端緒でした。その後、2000年には、「日本軍性奴隷制を裁く2000年国際戦犯法廷」という会議を主催し、政府と昭和天皇に有罪の判決を下し、2012年には、彼女の遺志を継いだ人々が、NPO法人「女たちの戦争と平和人権基金」を設立しました。

 海外に住む日本人はたまったものではありません。2016年8月には、ニュージャージーに住む女性たちが、「ひまわりJAPAN」という民間団体を作って、在米日本人に、日本人の誇りを持ってほしいと訴えました。カルフォルニアでは、日本人の子どもたちが、日本人だという理由で唾をかけられ、殴られる事態となっていました。大人は日本語を公けに語れず、日本人だと分かると、韓国人の店主に「出て行け」と店を追い出されたと言います。このような事態は、もっと調査すべきです。

 ガーデングローブ市のような街では、60人だった韓国人の移民が、五年間で2万人に増えています。 韓国人が母国を去ってアメリカに移住している今、従軍慰安婦問題は、日本人住民の大きな脅威となっています。ニュージャージー州の昨年の中学校の課題図書は、「私の名前がケオ子だった時」(リンダ・ス・パク著)という、日韓併合時の「日本人の目に余る蛮行」を描いた小説です。この小説はアメリカに広くいきわたった学校の副読本で、そのような捏造の小説の感想を書かなければならない子どもたちの心情は可哀そうです。領事館前では、反日デモが続いています。

 2015年の「国連・女性の地位に関する委員会」では、韓国の代表が「第二次世界大戦中の性奴隷である慰安婦問題はいまだに解決されていない」と訴えます。 国連は、その後、「皇室の皇位継承は、女性差別であるから、女性も天皇になれるように、皇室典範を変えよ」とか、「夫婦が男の姓を名乗らなければならないのは、女性差別だから撤回せよ」とか、「非嫡出子に嫡出子の半分しか相続財産が認められないのは、差別だ」と、日本の反日団体の訴え通りに、勧告をして来ました。反日活動家の内政干渉は、日本を転覆させる意図が見え見えでした。

  杉田さんは、2016年に国連に出向いて、「慰安婦は性奴隷ではない」と語りました。会場には、挺対協(韓国)、抗日連合(中国)のメンバーが押しかけ、「恥を知れ」と罵声を浴びかけられて、会場は混乱に陥ります。話が、ベトナム戦争中の韓国軍の蛮行、ライダイハン(韓国軍にレイプされた生まれた一万人近くの子どもたち)、虐殺されたベトナム人の慰霊碑、韓国軍の運営する慰安所の写真などに移ると、ポツポツと退場する韓国人も現れました。

 しかし、質疑応答の時になると、大きな声で話し続ける韓国人の妨害で会場は混乱します。だいたい、70-80歳の元慰安婦の証言が、戦後72年後に、何の意味を持つのでしょう。出産前か、よちよち歩きの時に、どうやって性奴隷にできるのでしょう。会場を去る時に、一人の白人男性が、杉田さんに「慰安婦の写真だ」と見せたものは、特攻隊を慰問する日本人女性の姿でした。それでも、性奴隷の韓国人の写真だと思い込ませるのですから、捏造もひどいものです。

  2016年の2月に、杉田さんはすでに、国連の女性差別撤廃委員会で、「性奴隷は、歴史的な根拠が全くない。吉田清治のでっち上げで、朝日新聞が32年間、嘘を報道し続けたものだ。朝日新聞は、世界中で日本の栄誉を貶めた。けれども、全く事実無根である。」と話して、委員を驚かせました。それまでは、日本から来た反日活動家が、全く逆のことばかりを言って来たからです。テキサス親父と呼ばれるトニー・マラーノ氏も、「1994年の米軍のビルマにおける朝鮮人慰安婦の聞き取り調査でも、性奴隷どころか、豪華な生活を楽しんでいた」と証言しました。

 ソウル大学のアン・ビョンジュク教授も、サンフランシスコ州立大学のサラ・ソウ教授も、元慰安婦に聞き取り調査をして、クマラスワミ報告というスリランカの特別報道官の調査の時に、嘘の証言をしたと認めていました。それは、挺対協(韓国)によって、ナヌムの家に軟禁され、日本軍に誘拐されたと虚偽の証言をするように、訓練を受けたという話でした。日本政府も、その時には、「クマラスワミ報告を撤回し、被害を受けている日本人の人権を守ってほしい。」と言ったのでした。

 政府代表の杉山晋輔外務審議官も、「本格的な調査を行っても、強制連行を確認できるものはなかった。1983年に、吉田清治が韓国の済州島で女性狩りをしたという虚偽の捏造記事を書いたこと発端で、朝日新聞によって事実であるかのように大きく報道されたが、複数の研究者によって完全に想像の産物であることが証明されている。朝日新聞も、2014年の8月と9月に、事実関係の誤りを認め、正式に謝罪している。戦時下に労働力として動員された多くの女子挺身隊は、目的は労働力の補充であって、慰安婦ではない。朝日も混同を認めている。」と証言しました。

  しかし、2016年3月7日の最終見解では、杉山証言は全く無視されました。国連の委員会は、元慰安婦への金銭的な賠償を含む、「完全かつ効果的な賠償」を勧告してきたのです。杉田さんは、国連においては、「事実は全く重要でなかった」という現実に気が付いたのでした。その後、2014年の6月に、「官憲らが直接、これら加担した」と言って、従軍慰安婦問題を堅固なものとした「河野談話」を国会で取り上げました。河野談話を作成した石原信雄氏から、「原案は韓国とすり合わせた」「強制連行があった」というのは、河野洋平氏の独断による発言だった、と明白にしたのです。

 ようやく、河野洋平氏本人を、国会に証人喚問できるというときに、2014年の解散総選挙で、杉田さんは落選してしまいます。「嘘を続けることはできない」と書いています。この本は、今年の3月に出版された本です。そして、半年過ぎて、杉田さんは、再び、衆議院議員となりました。立憲民主党などという、反日勢力も力を増していますが、今こそ、安倍政権を支えて、「誇りある日本人」を取り戻すために、頑張っていただきたい。情けない、反日キリスト教会には苦労なさるでしょうが、私も、神さまに裁かれてしまう教会に警告を続けます。頑張っていただきたい。


























を」

























 

 













 

















2017年10月19日木曜日

儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇






  ケント・ギルバートの「儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇」を読みました。ケントさんは、武士道に憧れを持っていた日本の庶民が、人格形成の教科書のように「論語」を学んだ日本人の読み方と、儒教を絶対視しながら、そこから「徳」ではなく、「覇権主義」「中華思想」を生み出した中国人、あるいは韓国人の読み方とは、全く違ったものとなった、と分析しています。儒教からお人好しになってしまった日本人と、狡猾さを学んだ中韓とは、対極にあったのです。

 1960年に始まる文化大革命は、1973年からは、「孔子は封建的な思想の持ち主で、大悪人である」という「批林批孔運動」となります。それは共産党内における権力闘争でしたが、「仁・義・礼・智・信」を重んじる孔子の教えは、拝金主義にとって代わります。世界の頂点にある中国は、お金の力で、野蛮な周辺諸国を征服するのです。習近平が、「中華民族の偉大な復興という中国の夢を成し遂げる」と、国家主席への就任演説で語った通りに、です。

 中国を秦が統一した時代に、始皇帝は「焚書坑儒」を行い、460人の儒教の学者を生き埋めにして殺し、儒教の本を燃やして、「道教」という単純な汎神論を国教としました。しかし、漢民族である劉邦が秦を滅ぼすと、為政者たちは敬礼威儀を重んじる儒教を重んじるようになり、漢の末期には王莽が、偽善をごまかすような形で儒教を使い、北周の武帝になって、574年に、三教(仏、儒、道)の中から、儒教が国教として正式に採用されます。それが、儒教の完全復活でした。

 中国の儒教は、「己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」のような、日本人のメンタリティーと合うような部分を取ってはいません。そのような「公」に「私」を服させるような考えではなく、「私」の利益のためならば、「公」の法を犯す道を選びます。世界よりも自国、自国よりも共産党、共産党よりも家族、家族よりも個人です。孫文は「中国人は、握れば指の間から落ちる砂のようだ」と言いました。ある番組で、宋文洲が、「中国に国家なんて考えはない」と言った言葉が印象的でした。

 チャイニーズドリームとは、わいろを使って地位を得、より多くのわいろをもらう立場になって、そのお金を握って、海外に逃亡する「裸官」になることです。1900年代中期以降、18000人が、10兆3000億円を持って海外に逃げました。中国のわいろは、民進党の玉木議員が獣医学会から100万円をもらって、国会で便宜を払ったようなものではなく、数億円が当たり前の世界です。2008年のわいろは、116兆円で、中国のGDPの三割を占めます。わいろが当たり前の世界です。

 日本は漁業資源を守るために、漁獲高の制限を設けたり、幼魚をリリースするといった、将来を見据えた配慮をしますが、中国にはそのような配慮はありません。むしろ、14億人の胃袋を満たすためには、手あたり次第の乱獲を続けるので、海洋資源が枯渇しようとしています。 年間100万人が死ぬという中国の大気汚染のために、日本は技術援助をしようとするのですが、資金も提供しなければ、煙突を倍の高さにして、日本の大気汚染を倍にすると脅してきます。工場排水もひどく、「癌村」と呼ばれる村が247か所あって、奇形や身体欠損で生まれる子供は、年間90万に及びます(2013年)。自分さえよければいいは、中国の人民を苦しめています。

 このような中国の覇権主義と戦ったのは、聖徳太子で、隋の煬帝に、「日出処の天子、書を、日没する処の天子に致す。つつがなきや。」と書を送ったのは、中国と対等の関係を求める決意表明でした。しかし、第二次世界大戦が終わると、蒋介石の中華民国(台湾)は戦勝国となりました。田中角栄が裏切って、中国共産党と組むまでは、中国とは台湾のことでした。けれども、台湾が追われ、大陸の共産党が中国となりました。1947年に生まれた、この新しい中国は、日本と戦ったはずがないのに、戦勝国を名乗りました。そして、1972年の日中国交正常化の時に、存在しない「日本への賠償請求権」を破棄する代わりに、ODA(政府開発援助)を求めたのです。

 日本は、1979年以降、3兆円を超すODAを中国に支払ってきました。中国は感謝するどころか、それを当たり前の貢物と受け取り、軍備の増強に充ててきました。それが今の中国の日本への脅威となりました。日本の企業が中国に進出し、お金を落としてきたこともあります。日中友好協力会の丹羽宇一郎は、伊藤忠の社長だった時に、「将来は中国の時代がやってきます。日本は中国の属国として生きればいいのです。それが、日本が幸福、かつ安全に生きる道です。」と語っています。そのように、日中友好の名のもとに、企業は国を売るようなことをして来ました。

 中国の皇帝は、徳を失えば天は王朝を見限り、革命となるという「易姓革命」を信じていたので、自らを正統な王とするために、歴史の改ざんを行ってきました。 この「天命」の考えとともに、中国は「霊の不滅」を信じていました。死ぬと、人の霊は体から離れ、永遠に存在するというのです。それが先祖崇拝の理由でしたが、同時に、敵の霊がもう一度肉体に帰らないために、前の王朝の墓を暴き、死体を爆破することもしました。それで、かつての敵国であった日本の英雄を、「A級戦犯」とし、処刑し、永遠に赦さない、としたのです。「小中華」として、それにならう韓国も、「千年赦さない」と、朴槿恵が言っています。中国に赦しはないのです。

 日本人は、輪廻を信じますから、死んだ人は罪から解放されている、と信じています。1953年の8月3日には、衆参両議院が満場一致で、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」を採択しました。つまり、A級もB級も、日本には「戦犯」という考えはないのです。すべての戦争犯罪は恩赦を受け、犯罪者はいなくなりました。それを、戦犯だの、合祀だのいちゃもんをつけるのは、決して人を赦すことがない、中韓の思想によるものです。

 韓国は、ベトナムなどのアジア諸国とは違って、「小中華」となって、中国にすり寄る道を選びました。日韓併合は、西洋列強を恐れた韓国が日本に懇願してきたもので、併合後日本は、60兆円を超える投資を韓国に行い、インフラ整備を行ってきました。戦後は、1965年に日韓合意を行い、日本が取り戻してもよい投資を、請求権を放棄するとするばかりか、独立祝い金として、韓国の国家予算の倍の援助を行いました。これは戦後の韓国の民の個人補償でしたが、韓国政府は約束した通りには使わず、国の経済に回して、その回復は「漢江(はんがん)の奇跡」と呼ばれました。

 その後も、2006年と2008年の経済危機に、日本は韓国に、それぞれ2兆円と3兆円の経済援助を行いました。韓国は、日本を見下すために、嘘の歴史を中国同様、作っていました。李承晩が率いる「韓国光復軍」が日本軍と戦って、戦勝国となったというのです。その時、李承晩はハワイに住んでいて、戦ってなどいませんでした。サンフランシスコ平和条約に、李承晩が参加したいと申し出ると、連合国は断りました。「お前は戦勝国ではない」と。戦後の日本でも、韓国人が、「自分たちは戦勝国だ」と日本人に乱暴を働くのを、GHQは止めて言いました。「お前は戦勝国ではない」と。

 朝鮮人は、戦時中は、朝鮮半島出身の日本人でした。日韓併合で、日本人となっていたのです。彼らは、日本軍人になることを憧れ、兵役試験に落ちると、自殺する者もあったぐらいです。そのような彼らが、日本の敗戦とともに寝返りました。伊藤博文を殺した犯罪者、安重根を英雄としました。実際は、安重根は、明治天皇を崇拝する人で、伊藤博文を殺したのは、「明治天皇に大御心に逆らう逆臣」と勘違いしたからでした。伊藤は、日韓併合には反対でしたが、韓国の皇太子の日本留学のお世話をするなど、韓国のために尽くした人でした。これは嘘よりも誤解です。

 日本では、「嘘つきのは泥棒の始まり」と言いますが、韓国では「嘘も上手につけば、稲田千坪にも優る」と言われて、嘘や虚言が奨励される社会です。2005年に、日本独自の古墳である前方後円墳がソウルで発見されました。韓国は、「日本は朝鮮の文化を伝えられて良くなった、朝鮮よりも劣った民族だ」と信じていたので、さっそく発掘を始めました。ところが、日本のものよりも後代のもので、中に埋葬されているのが日本人だと分かると、困ってしまいます。「日本の文化が朝鮮に伝わって、朝鮮は良くなった」という、現代の説と同じになってしまいます。

 だいたい、日本人がなんでも良いものを作って、そのコピーを韓国や中国が真似ているのは、今も昔も変わらないのです。それで韓国は、「これは朝鮮の豪族に仕えていた日本人家臣の墓だ」と発表をしたのですが、なぜ、朝鮮のご主人がいたとしても、こんなにも大きな立派なお墓を作ってもらえたのか、説明ができません。それで、その前方後円墳は、もう一度埋められてしまいました。中韓は、何かにつけ、「自分たちは日本人よりも優れている」と言いたがります。「和の国」の「和」を、「倭人」とするのは、「倭」に「小さい」意味があって、軽蔑して言っているのです。

 日本人は、実に優れた民族です。 「仁・義・礼・智・信」を重んじる孔子の教えを、庶民の武士道として受け入れた、高潔な道徳心を持った民族です。ハワイの真珠湾には、日本軍、日本兵の尊敬を記した、たくさんの記念館があります。戦艦ミズーリの記念館には、19歳の特攻隊員の記念プレートがあります。ミズーリに特攻し、胴体が甲板に転がった彼を、アメリカの兵士が蹴りつけると、ミズーリの艦長は、「彼は英雄だ。私たちと同じように戦って死んだのだ。」と、彼のために日章旗を作らせ、翌日、それに丁寧に包んで、アメリカ海軍葬としたのでした。「私たちはここで、お互いに、勇敢に戦った」―米軍の誇りが、このような勇敢な日本軍と戦えたことにあったのです。

 2016年の12月に、安倍首相はハワイの真珠湾を訪れ、8日には、初めての日米の合同の慰霊祭を行いました。聖書には、「あなたの敵を愛しなさい」と書かれています。それがわかるのは、アメリカと、かつての日本でした。中国では、敵を憎んで復讐するのに、敵が死んでいたので、墓を暴いて、死体を300回鞭打つ、という故事があります。「死者を鞭打つ」とは、ここから始まった、中国の伝統です。しかし、アメリカには「敵を愛せよ」の聖書があり、日本にも、「和を以て貴しとなす」、寛容の精神がありました。それが精化した「武士道」がありました。徳の儒教がありました。

 ウズベキスタンは、ソ連の日本人捕虜の抑留地となりました。強制収容所で働く日本の兵隊を指して、ある母親が「見なさい。あの日本の兵隊さんを。ソ連軍が監視していなくても、あのように働く。あなたも、こんな人になりなさい。」と、その息子に言います。その子はやがて工員となって働き、ウズベキスタンの大統領となりました。「あの日本人のおかげだ」と言ったそうです。日本人が建てた建物は丈夫で、ナヴォイ劇場は、1966年の大地震にもびくともしませんでした。「日本の捕虜が建てた」と記念のプレートを作ろうとしたときに、大統領は、「われわれは日本人を捕虜にしたことなどない。日本国民としなさい。」と命じたのでした。ソ連の弾圧の中でも、彼らは今も、日本人の捕虜の墓を守り続けています。世界が尊敬してやまないのは、かつての日本人でした。

 「かつての日本人…」そうです、戦後日本人は大きく変わってしまいました。「他人をおもんばかる」とか、「空気を読む」とか、「寛容さを示す」ということは、今では、忖度という良いものなのに、悪事のように言われる時代になってしまいました。 台湾で、新渡戸稲造の記念会が、今でも台湾人によって行われています。出席した日本人が、「かつて日本人は、あなたがたに酷いことをした」と詫びると、「いや、戦前、戦中の日本人は、ほんとうに私たちを助けてくれた。酷いことをしたのは、戦後のあなたたちだ。」と言われたそうです。戦前の日本が悪いなどと言う日本人こそ、酷い人間たちです。だいたい、父祖を敬えない人間が、ほんとに日本人のなのか、と思います。

 けれども、これは米国が日本に対して行った、WGIP(ウォー・ギルティ・インフォメーション・プログラム)によるものなのです。心ある日本人を戦犯として殺し、公職追放し、高潔な道徳心を一掃することにしました。「国に忠誠を尽くすことは、非民主主義的な、非人間的な、ファシズムなのだ。愛国心は悪である。」―目上の人を敬うことができない、祖国に誇りを持つことができない、恥ずべき人間とすることで、日本人を滅ぼそうとしたのです。中国のような、韓国のような、自分のことしか考えない、武士道も儒教の道徳も失なった、自虐的で卑屈な人間として、滅ぼそうと…。

 しかし、2008年、四川大地震の時に、日本の救援隊は、ビルのがれきの中から、母子の遺体を収容し、黙とうを捧げました。搬送車で搬送されるときには、敬礼をして見送りました。中国人は、テレビで、見たことのない人間の姿を見ました。反中感情が、どうしても日本人の中に生まれてくる時期でした。そんな折に、日本からは多くの義援金が届きます。「自分よりも他人を優先する」「他人をおもんばかる」―まだ、日本人の中には、「かつての日本人」が残っているのです。今は、こんな日本人になってしまいましたが、戦前、戦中の日本人、世界が尊敬する日本人は、まだ、私たちの中から消えていない…希望を失ってはなりません。
























































2017年10月13日金曜日

チャイナ・インベイジョン






 柴田哲孝の「チャイナ・インベイジョン」(中国日本侵蝕)を読みました。2012年11月の出版で、その後、安倍政権が12月に誕生、中国の野望は延期となりましたが、民主党のままだったら、このような形で日本が中国の一部となっていたと思われます。ノンフィクション作家の警鐘の本です。

 自民党の中川昭一議員は、「日本が危ない」と言い続けた国士で、拉致問題でも先頭に立って戦っておりましたが、2009年に死にます。おそらく、父親の中川一郎同様、暗殺されたと噂されています。民主党による友愛(粛清)か、CIAの工作か、尤もらしいのは、中国の工作でしょう。

  当時の民主党は、「アジアと中国の民主主義を考える会」で、今は「世界ウイグル会議」の議長となっているラビア・カーデル女史を講演者として招聘する予定でした。ところが、小沢一郎が民主党議員と訪中すると、圧力を受けて中止にします。それを受け継いだのが、中川昭一の勉強会で、中国のウイグル人への弾圧が明らかになり、中川昭一は人権問題として懸念を表明します。

 中国の少数民族弾圧は、中国のアキレス腱で、ウイグル人を1000万人くらい虐殺して来ました。46回の核実験で、100万人以上が殺されたと言われます。今も弾圧は続いていて、2-3人のウイグル人が集まると射殺され、突然連行されて裁判もなく処刑されます。チベット人は200万人虐殺されましたが、人口が800万の国でしたから、4人に1人が殺されてました。今でも、年間10人ぐらいは、抗議して焼身自殺しています。そのような人権問題を、中国に配慮して、人権主義者たちは全く取り上げなかったわけです。


 けれども、もうひとつ中川昭一が問題としたのは、20年もすれば日本人の領土がなくなるほどのスピードで、中国が日本の土地を買収し始めたことです。中川昭一は、「外国人による土地買収を規制する法案」を国会に提出しようとしていました。「水源地が買われている」とマスコミも報道を始めましたが、柴田哲孝は、「軍事拠点ではないか」という視点から、この著書を書いています。特に自衛隊の基地の半分が北海道ですから、土地の買収も集中しています。しかし、安倍政権、トランプ政権、蔡英文の政権の誕生で、中国は、日本の占領を延ばさざるを得なくなっています。

 中国は、2008年の時点で、東京都の港区に大使館、大阪、福岡、札幌、長崎、名古屋に領事館を持っていました。2009年に沖縄に領事館の土地を売るように求めると、中川昭一は断固反対します。領事館は軍事拠点になりえるからです。それと引き換えに、中国は、新潟に領事館を要求します。この土地は、2011年、震災にまぎれて、1万5千㎡が買収されました。名古屋では、名古屋城の近くに3万㎡が買収されそうになりますが、市民が反対。しかし、東京の麻布では、6千㎡が買収され、皇居、国会議事堂、総理官邸などを、射程距離に収めました。

 2010年に中国は、「国防動員法」を発布、「必要に応じて、組織及び個人の設備施設、交通手段、その他の物資を徴収し、徴用できる」(第48条)としました。その後、中国人が自由に日本に入れるように、「ビザ発給要件」を緩和します。今では、3か月観光ビザで入れば、健康保険が給付され、 1年滞在すれば、本人とその関係者が永住権を持てるまでになっています。土地の買収は、一億㎡ほどが分かっていますが、現実には、その10-100倍と言われています。


 2010年の9月には、尖閣諸島の久場島付近で、中国の漁船が自衛隊の巡視船に衝突する事件が起きました。この船は中国の人民解放軍のものだと分かりますが、当時の民主党政権は、一度逮捕した船長を処分保留のまま釈放し、船長は中国の英雄として帰国します。日本が領土問題で、日本の領土を中国に譲るようになるきっかけとなります。2011年の4月に、石原都知事は尖閣の購入を宣言し、民主党政府は国として購入しますが、ここに「領有権」の問題が始まります。

 もともと尖閣諸島は、所有者のいない島でしたが、1895年に日本領となり、住民が住み、灯台も立てられました。敗戦後、沖縄とともにアメリカ領となりますが、沖縄返還とともに日本に戻って来ました。ところが、1968年に国連の海洋調査で、尖閣諸島が石油と天然ガスの宝庫であることがわかります。その時から、国民党の台湾と、中国とが、「尖閣はわが国固有の領土」と言い始めます。日本政府は、「尖閣に領土問題はない」と逃げたので、問題はどんどん悪化しました。


 中国は、2007年の8月に、アメリカの太平洋空軍司令官に、 「太平洋は、ハワイのあたりで分割し、米軍と人民解放軍が管理することにする」と提案し、親中派の議員は好意的でしたが、国防当局は、「西太平洋の覇権を中国に売り渡すような宥和政策は、大きな間違いだ」と反対しました。その後、習近平も、オバマ大統領に同じような「中国の覇権」を主張しましたが、南沙諸島の基地建設は容認されず、「航行の自由作戦」となりました。中国では、日本はすでに中国の領土と考えられていました。それが、「2050年極東地図」にもはっきりと表れています。

 1972年の日中国交正常化以来、中国は日本の領土化と、日本人の虐殺を国策として来ました。そのために、「南京大虐殺」というでっち上げを日本に認めさせ、中国の民には、いつの日か「東京大虐殺」をもって復讐するのだと、憎しみと戦意を植え続けてきました。 そして、2011年3月、日本は壊滅的な震災に見舞われます。1995年の阪神大震災の1450倍と言う、幅200キロ、長さ500キロの震源を持つという、とてつもない大地震が起きました。

 津波による被害は、死者1万6千人、行方不明者3千人という大規模なものでしたが、避難民9万人の多くは、原発事故の二次被害です(現在)。当時の菅直人首相は、海水の注入を妨害し、事故を拡大させました。海水の注入は、廃炉を覚悟した所長の勇断によるものでした。事故後数時間で、3つの原子炉がメルトダウン(炉心溶融)を起こしましたが、政府もマスコミも、事故の深刻さを隠し続けました。その時の責任者が、責任も問われずに、衆議院選に立候補しているという、おめでたい現実があります。このどさくさ紛れに、麻布の一等地は、60億円で中国に売られました。

 
 2011年、日本の戦闘機が国籍不明の戦闘機の攻撃を受け、ミサイル2発を受けて爆破され、墜落しました。 反撃をしようとする戦闘機に、「防空識別圏内での攻撃は許可できない」と命令が出され、事故は単独事故で処理されます。中国の戦闘機に対するスクランブル発進が、2009年の300回から、400回に迫る勢いでした。今は、年間1168回になりました(2016年)。中国機に違いないと思われながら、何も言えないのが現実でした。

 
 2012年、習近平が中国の最高指導者となります。この本では、その後、中国船が日本の巡視船を攻撃、さらに戦闘機も日本の戦闘機を攻撃、中国側が「日本による無差別攻撃だ」と言って、宣戦布告をします。そして、国防動員法が発動し、軍事基地となった大使館、各領事館、中国に買収された領土から、各地で一斉蜂起が始まります。すでに、数百万人の中国の兵士が潜んでいますから、自衛隊や警察への無差別の攻撃です。日本の警察は、私服を着た中国の兵士を、一般人とみわけられず、混乱します。

 政府は、「協議中、動くな」と命じて、「外交による平和的な解決」を話し合います。テレビもパソコンのもハッキングされ、画面は「日本人殲滅」の一色です。日本のシステムは、すべてダウンしてしまいます。中国側は、「すみやかに降伏すれば、全員の身柄の安全は保障する」と、チベットを無条件降伏させた、お馴染みのアピールをします。そして、占領後、チベット同様、日本国民の多くは虐殺され、平和ボケした時代は、幕を閉じるのでした…。


 しかし、今は民主党政権ではありません。日本の滅亡を願う勢力は、いまだに「安倍打倒」を叫び、「籠池、加計隠しだ」「忖度だ」と、メディアを挙げて、日本侵蝕のシナリオを現実のものとしようと必死になっています。習近平は、この10月に、いよいよ共産党大会で権力を固め、今度こそはと、日本滅亡の総仕上げにかかってきます。そのために、今回、安倍首相は、衆議院を解散し、国民の信を問う選挙としました。安倍が倒れれば日本が地獄と化す、究極の選択となります。


































 






2009年に死にますが、は

2017年10月3日火曜日

茶の本








 岡倉天心「茶の本」を読みました。日本の伝統を思い、自然な形で福音を伝えたい、という思いからです。天心は、江戸、明治、大正と生きた思想家です。「茶の本」を書いて、日本の伝統を海外に伝えましたが、後に、「自分は茶には無知であった」と告白しています。茶の湯の大家ではなく、「守護者」でした。彼は、東大の時代に、アメリカの学者アーネスト・フェノロサの影響を受けて、日本の芸術を保護しようと働き始めました。そして、それに生涯をかけたのでした。

 天心がフェノロサから学んだのは、日本は芸術品の宝庫であり、歴史のあらゆる時代の宝物を備えた、「アジア文化の博物館」であることでした。彼はアメリカに留学し、西洋の目で日本を見た時に、日本人とは違った客観的な視点で、むしろ、西洋哲学の視点から、日本の美術を再評価できたのでした。その時に、「茶の湯」は、日本の精神文化の一つの形であって、生活を芸術に高める修行の一つだと知りました。

  「美しいものとともに生きたものだけが、美しく死ぬことができる」(千利休)のでした。

 日本には、茶の湯という美しいものがありました。アメリカ人は、日本に宣教に来る時に、与えようとして来ますが、決して受けようとはしません。それは大きな間違いです。東洋は、若干の点において、西洋に勝っています。「自分の中の大きなものの小ささがわからない者は、相手の中の小さなものの大きさがわからない」と天心は言います。西洋人は、東洋人がたしなむ「茶」の大きさがわかりません。アメリカの独立だって、お茶から始まったのです(1887年、ボストン茶会事件)。

 茶はもともと中国のもので、初めは「医薬」でしたが、唐の時代の天才「陸羽」が最初の「茶の使徒」となって「茶経」を著し、茶の掟を定式化し、芸術にまで高めました。それは審美主義の宗教となりました。それは、仏教と道教と儒教が次々と現れ、混在していた時代に、それらを統合しようという時代でした。そしてそれらは、茶の湯の中に統合しました。茶の湯は、これらの汎神論の中に、調和と秩序を見出しました。それは、日常生活の中で、美しいものを見出し、あがめる儀式でした。

 中国は、初めは漢民族が住んでいた土地に、漢民族以外の民族が国を建てた場所でした。ただ、「漢」と「明」というふたつの国は、もともとの漢民族が作りました。「清」は満州族ですし、「元」はモンゴルですし、「金」は女真族ですし、「秦」は遊牧民族の羌(きょう)族ですし、隋や唐は狩猟民族の鮮卑ですし、宋はトルコ系の突厥(とっけつ)ですし、もともとの漢民族は劣勢でしたが、現在の中華人民共和国は、毛沢東以来、漢民族の国…いや、世界征服まで考えています。

 それで、唐の時代に始まった茶は、「団茶」と言い、干し固めた茶で、削ってお湯に入れました。茶の緑を生かすために、青い茶器が使われました。宋の時代になると、「粉茶」になりました。それは、天目と呼ばれる、青黒い色と、暗い褐色の茶器が使われました。明の時代になると、「だし茶」となって、今の煎茶の形になり、白い茶器が使われました。しかし、いずれの時代にも、支配者は変わっても、中国には漢民族の文化は残っていました。

 それで、いずれの時代の「茶」も、日本に伝来しました。唐代の茶は、聖武天皇が百人の僧侶を招いて開いた茶会(729年)や、最澄が叡山に茶を移植し(801年)、茶園を作って、僧侶の飲料とした記録が残っています。宋代の茶は、栄西禅師が、新種の茶を三つ移植し、その一つが宇治の抹茶として残っています。彼は、病気がちの源実朝将軍に、「喫茶養生記」という著作とともに、茶を送って喜ばれました。15世紀になると、足利義政の奨励で、茶の湯は完全に組織化しました。

 茶の湯は、このように15世紀に、今の茶の湯に発展しますが、それは、仏教徒の中で、特に、道家の教理を多分に取り入れた南方の禅宗によって、「心を込めた」茶の儀式となって、僧侶たちに愛好されました。団茶の唐の時代は、理想主義の時代でしたが、粉茶の宋の時代は、現実主義の時代でした。 日本に伝わった茶も、茶そのものよりも、それをたてていく過程で、精神修行を行うという、鍛錬の一方法となりました。それは、自然を味わい、清潔に励み、贅沢を慎むという、実用的なものでした。

 茶の湯の神学である「道教」は汎神論で、絶対的な真理はなく、真理は相対的なものであると信じていました。道教は、社会の必要から生まれた、実践の教えでした。「法律や、社会道徳には、意味がない」「正しいとか、正しくないとか、相対的なものにすぎない」「まじめに世の中生きても意味がない」という相対の世界です。道教は、真理を信じるキリスト教とは対極にある「処世術」でした。真理などは、どうでもよいものでした。日本のクリスチャンに、それがないか心配です。

 宋の時代の寓話に、それをよく示している「三人の酢をなめる者」という寓話があります。

 「三人の人が酢をなめた。最初になめた釈迦牟尼は、『すっぱい』と言った。次になめた孔子は、『にがい』と言った。最後になめた老子は、『あまい』と言った。」

 人それぞれ感じ方があるし、受け取り方があるし、それでいいではないかというのが、茶の湯の根底にある「禅」の道教的な「相対性の崇拝」なのです。これは、「神さまはおひとり、キリストはおひとり、真理はひとつ」とするキリスト教とは相いれないものです。それは、「事実」とか「真理」とは無縁の世界です。すべては、「自分の心」が大事なのであって、その「自分の心」との交流以外に、ほんとうのものは存在しません。これが、キリスト教がわからない、日本人の宗教です。

 禅宗の六代目の指導者、六祖慧能の有名な話があります。ふたりの僧が、塔にはためく旗を見て言いました。「風が動いている」「いや、旗が動いている」―しかし、慧能は間違いだとしました。「風も旗も動いていない。動いているのは、お前たちの心の内にあるものだ。」…すべては相対的です。ある意味、世界そのものもなく、すべては「私の心の投影」なのです。そうなると、例えば殺人をしても、それは「心の投影」で済んでしまいます。「事実」ではなく、「心」だけが存在するのですから、すべては消え去っていく「心の現象」に過ぎないのですから…。

 もうひとつ、荘子と友人の会話。荘子が、「楽しそうに魚が泳いでいるね」と言うと、友人は「魚が楽しいかどうか、君に分かるはずがない」と言います。すると荘子は、「魚が楽しんでいることが、私に分からないと、どうして君に言えるのだ。君と私は違うじゃないか。」と言うので、友人の負けです。魚が楽しんでいることは、荘子の心の真実であって、それを誰にも否定はできないのです。

 茶の湯の大家は、千利休です。彼によれば、「茶の湯とは、ただ湯を沸かし、茶をたてて、飲むばかりなる、もとを知るべし」…自然に親しい人が集まって、食事をともにし、茶を飲み、浮世のわずらわしさを離れて、休息を楽しむこと、ただそれだけです。そして、平安を得ることです。禅僧の臨済が言うには、「まことの貴族とは、何も心配することがない人のこと」(無事是貴人)なのでした。そのような「心の境地」、「侘び」の境地に達することが、茶の湯の目的でもあります。

 「見渡せば、花も紅葉もなかりけり、浦の苫屋(ともや)の、秋の夕暮れ」(藤原定家)

 「不完全」です、足りないものだらけです、そして、それが人間本来の姿だというのです。そのような中で、足らざる自分が心を込めて、友を茶の湯に招くのです。「今のこの茶会は、生涯にただ、一度のものである」(一期一会)―そのように利休は、師である紹鴎(じょうおう)から学んだ、と言われています。そこに、茶の湯の道がありました。「道」(タオ)というのは、宇宙と人生の根源的な不滅の原理です。首としんにょうからできたこの言葉は、「始まり」(首)と「終わり」(しんにょう)からできています。始まりから終わりまで、「不完全」という「美」があるのです。それを崇拝するのです。

 聖書には、「伝道者の書」があります。「すべては空である」と教えています。神さまなしに、キリストなしに、すべては空なのです。それを美しいとするのでしょうか。私は、そのような世界だからこそ、キリストを必要とし、キリストを得た時に、「すべては光である」ことを見出したのです。 クリスチャンの中にも、救いがわからないように、自分の心ばかりを見つめて、「人それぞれ、いろんな考え方がある」なんて言っている人がいます。それじゃ、救われようがありません。「この御方以外に救いはない」と言えなければ、侘び、さびの世界に滅びていくのです。

 日本の伝統を重んじながら、そのなかには決してない、「キリストの光」を伝えて行きたいと思うのです。押しつけじゃいけません。私たちも、「不完全の美」をよくよく味わいながら、それをはるかに超えた、キリストの恵みを伝えて行くのです。この世に迎合せずに、しかし、よく耳を傾けて、私たちの信じるキリストを伝えます。それは決して、傲慢な態度で語ってはならないことです。茶の湯以上の謙遜さが求められている、と思います。













































































式化して

2017年9月29日金曜日

日本共産党






  筆坂秀世「日本共産党」を読みました。今のキリスト教会が、共産党と同じようになっているので、日本共産党のルーツを探りたいし、キリスト教との違いを見出したいという思いでした。

 筆坂さんは、戦後3年目に生まれて、荒れすさんだ少年時代の後に、自分の存在意義を問い、「生き方を求めて」入党をしました。そういう人は、キリスト教にもいますから、似ています。そして職場の先輩から、民青(日本民主青年同盟)のパンフをもらい、「平和と民主主義の流れに向かう世界の中で、社会を変革し進歩させる、生きがいのある人生」という言葉に惹かれました。

 「反戦と平和」「進歩と平等」―それを実現するための「社会の主人公」にならないか。なるほど、「反戦と平和」「進歩と平等」ならば、自由主義のキリスト教のキャッチフレーズでもありますから、彼もまた、家族の反対を押し切って、その道に入ったのでした。1967年のことでした。当時は、共産党は大躍進の時で、彼は当選した議員の秘書となり、共産党の専従活動員になりました。

 戦後10年して、自由党は民主党と合併して自民党に、右派と左派の社会党も合併して旧社会党になって、「55年体制」と呼ばれる二大政党政治が始まっていました。公明党は、9年後の1964年に結成されます。それに比べて、日本共産党は、戦前からある最古参の政党でした。1922年に、ソ連のレーニンのコミンテルン(共産主義インターナショナル)の日本支部として始まりました。

 非公認の党で、 1933年に常任委員だった宮本顕治は、同志をスパイと間違えて、リンチの上殺していますし、1952年には、札幌市の白鳥警部を射殺していますから、破防法に基づいて、公安が監視する危険暴力組織となっています。今でも、オウム真理教と同じ扱いです。「市民の安全な暮らしを脅かす」組織でしたが、終戦とともに合法化され、「平和主義」を掲げたわけです。

 危険暴力組織なので、治安維持法で監視されていましたが、共産党側からすれば、「弾圧された」となります。このあたりも、戦前のキリスト教の熱狂的な再臨信者が、気が狂っているとキリスト教会からも危険視され、監視されたのと似ています。キリスト教会の中には、いまだに、「弾圧された」と言っている人たちがいます。社会悪は社会から懲らしめられる、と反省してもらいたい。


 それで、共産党は公認の組織となりますが、 「党の決定は無条件に実行しなければならない。個人は組織に、少数は多数に、下級は上級に、全国の党組織は党大会と中央委員会に従わなければならない」という規約を持っていました。さすがに、現代に合わないというので、2000年の党大会で改定をして、「民主的な論議を尽くし」としますが、それは建前であって、中央集権的な、また、「軍事的規律に等しい鉄の規律」というものも変わることはありません。

 それでも、「民主集中制」と呼ばれる、形だけは民主的なプロセスは踏みます。二か月かけて、支部で話し合って代表を地区議会に送り、地区議会が話し合って代表を県議会に送り、県議会が話し合って代表を党大会に送る、という「上りの党会議」によって、論議を尽くすと言います。ただし、党会議は常任幹部会が掌握しており、常任幹部会は党首の独裁ですから、どこが民主制かと思います。けれども、党員はふつう、社会を良くしたくて入るので、権力を得たいという党員はいません。

 「党員は、全党の利益を個人の利益の上に置き、だれも党の上に個人を置いてはならない」と初めの規則にあったように、自ら代表になりたいなんて立候補すれば、除名処分になります。皆さん従順に、その会議の指導者に従いますし、最高指導者に従うわけです。最初、宮本顕治が最高指導者として、共産党の路線を定め、その後、不破哲三が理論家として規約を改訂し、今も最高指導者として、89歳で支配しています。志位委員長(62歳)、小池晃副委員長(56歳)が従っています。


  党の年収は300億円ぐらいです(2004年)。党費と個人献金がそれぞれ11億円で、 合わせて22億円です。最も大きいのは、赤旗を初めとする文書からの収入で、251億円です。ただし、発行に180億円かかりますから、純益は71億円です。ですから、党の運営は赤字続きで、選挙募金、年末募金、夏季募金、党本部建設募金、選挙委託金支援金などを絶えず募っています。そのために支部では、みかん、新巻鮭、もち、アジの開きなどを販売して、募金をまかなっています。

 こういう状況ですから、党員の負担は大きく、85億円の党本部や、伊豆の幹部専用の別荘や、幹部が資金をかなり保有しているのを見ると、離れていく党員もいます。飛行機はファーストクラス、ホテルも一流ホテルだと、貧しい党員はやりきれないわけです。けれども、建前と本音が全く違うのが共産党の特徴ですから、ぜいたくな暮らしをしていても、貧しい人の味方だと言えるわけです。ちなみに、キリスト教の特に福音派の牧師は、ほんとうに貧しいです。共産党との違いです。


 さて、建前は立派です。共産党は、22-23世紀には(随分先の話です)、「民主連合政府」を作って、共産主義・社会主義を実現する、と言っています。その政府の仕事は、①日米安保の全廃・米軍の追い出し・非同盟で中立の国の樹立②大企業を成敗して、民主的なルールを確立③憲法を守って、軍国主義のない国―を実現することです。そう先ではなく、2050年を実現のメドとして、打ち出しています。まあ、口では何とでも…建前は何とでも言えますから。

 党員には、赤旗の販売を促進し、集金し、党員を増やすという義務が課せられています。また、議員を政治の場に送るための選挙活動です。けれども、「共産党です」というだけで、電話を切られることも多く、党員離れが進んでいます。支部では、60代が若手で、70-80代が主力であるという老齢化も起きています。さらに党員の文字離れ…党員が議案を読まず、一か月経っても、大会議案を読んだ人が16パーセントという状態で、民主的とは言えなくなっています。

 「すべてはトップが決める」「幹部が集まって幹部を自ら決めている」現実ですから、なかなか民主的とはなりません。宮本顕治が最高指導者の時には、「さて仮議長をどうしよう」と宮本が言い、古参幹部が「一番年長の同志を推薦します」と宮本を推薦します。 宮本が仮議長になって、「では、議長の選出を行う」と言うと、古参の幹部が、「宮本議長を推薦します」―これで、宮本議長が長年、最高指導者となっていました。そして、「私の方から幹部会委員長と、書記局を推薦していいですか」と言い、拍手をもらって、幹部が発表されます。これが共産党の民主主義です。

 不破委員長になると、「私が仮議長を務めていいですか」と申し出て、初めから練ってあった人事案件通りに、20人の常任幹部の名簿を読み上げるのですから、落選はあり得ないわけです。宮本議長から不破議長に交代する時には、宮本議長が辞める気がありませんでしたから、89歳の宮本議長を説得するのが大変でした。共産党の議長が辞めるには、死亡か失脚しかないわけです。

 それで、「議長を選出する」という規約を、「議長を選出できる」という規約に変えて、三年間、議長不在の期間を作って、実質、不破哲三が支配したわけです。「65歳以上の同志は、原則として勇退し、若い将来性のある幹部を登用する」として、予防線も張りました。実際、自ら89歳を迎えた不破哲三は、若い志位委員長を立てて、裏で支配しているわけです。志位委員長が65歳になったときに、さて、共産党の支配者は、どうなるのでしょうか。

 共産党の指導者は、上から下に「あなたがたは…」とものをいう言い方が特徴的で、下にいる者は、「報告をお聞きして、身が引き締まる思いでした」「まだまだ自分は甘かったです。報告を聞いて、目からうろこが落ちました」というような常套句があって、必ず自己批判をしなければなりません。上から下にものを教える組織です。そうしますと、指導者の間違いは致命的になります。


 不破が失敗をしたのは、森喜朗とのテレビ対談でした。「北朝鮮の拉致はない。疑うから北朝鮮と外交ができない」というのが不破の立場でした。もちろん、理由があって、2000年の党大会に、共産党は民団(在日本大韓民国民団)と朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)を招待し、「友好と交流」をアピールしました。それは、ソウルに日本共産党の支部を置き、1998年のテポドンの発射による北朝鮮との険悪なムードを解消するためでした。実際、村山首相は、訪朝団として訪問し、2000年の4月に、政府間交渉を再開していたのでした。

 「拉致問題は、日本共産党による野党外交の邪魔になる」と不破は考えました。それで、「拉致問題は証拠がない」「横田夫妻も最初は神隠しだと思っていたではないか」「これは主権侵害の問題じゃなく、国内問題だ」としたのでした。それなのに、2000年の10月には、拉致問題のために北朝鮮との交渉が中断してしまいます。「疑惑に過ぎない」と、棚上げを求めました。

 ところが、2002年の9月に、金正日が、「北朝鮮の特殊機関による妄動だった」と認めてしまいます。「共産党の最高指導者の無謬性」が、ここで崩れてしまいます。不破は、「北朝鮮の国家犯罪」という言い方を避けて、「特殊機関の妄動だった」と、北朝鮮との交流は正しいと言って、「拉致はない」と言った言い訳にしました。志位委員長は、北朝鮮が届けた横田めぐみさんの遺骨が、本物でないと分かったときに、「意図的じゃなく、手違いだろう」と発言して、「手違いなわけあるか」とひんしゅくを買いました。共産党の幹部の無謬性は、守るのに大変でした。

 いずれにせよ、共産党は―コミンテルンがもともとそういうものでしょうが―世界の共産党をアピールして、「野党外交」を自画自賛していました。ほとんど影響力のない党なのに、「世界平和に貢献しています」とやるのです。不破は、英語が話せないので、名刺を交わすだけの「名刺外交」、何一つ話さない「沈黙の交流」を得意としました。2004年に、天皇皇后夫妻が主賓となった、デンマークの女王夫妻の歓迎夕食会に招かれた夫妻は、「天皇との共存路線を明確にした」「ヨーロッパ王室の招待は、共産党を差別しないということだ」と報告をしますが、沈黙の交流は大きな思い違いを生んでいます。

  いずれにしても、共産党の党員は、党幹部の言動に疲弊している、と言ってよいでしょう。私たちは今、北朝鮮の核攻撃の脅威にさらされています。共産党は初め、侵略があったら、「国民が自ら戦う」「警察も動員する」という「竹やりで戦う論」を語っていました。けれども、1985年には、「憲法を変えて、最小限の自衛措置として、自衛隊も使う」と変更しました。ところが、1994年になると、「一切の軍備を禁止する」「戦争は放棄する」「憲法は変えない」と強硬になりました。

 それで、テレビ番組の司会者が、「じゃあ、どうやって日本を守るの」と聞くと、いつもの語り口ですが、「ありとあらゆる手段を用いる」と言います。「それって、軍備を使うってことじゃない?」 支離滅裂になってしまいました。それで、テレビ番組を終えた後に、①安保がある間は軍縮をする②安保を破棄したら、大幅軍縮をする③アジアが平和になったら、自衛隊を解散する④過渡的な時期には、主権の侵害や、災害に対して、自衛隊を使う―としました。えっ、自衛隊を認めるの?

 その後、⑤2050年になったら、自衛隊は解散する⑥たとえ侵略があったとしても、現時点では、自衛隊に反対をする、となりました。何を言いたいのか、さっぱり分かりませんし、こんな党に、日本を任せちゃいけないなあ…と思いました。そして、共産党によく似たキリスト教にも、「そんなんじゃ、だれにも信頼してもらえませんよ」と言いたいです。

  2003年に、名古屋のキリスト教の平和集会で、「外国が侵略して来たら、とうするのですか?」と聞きましたら、「死ぬだけです」と講演者は言いました。「あなただけじゃなく、あなたの奥さんや、息子さん、娘さんも死ぬんですよ。鍋かまを取ってでも、家族を守らないのですか」と聞くと、講演者は、「妻も子どもも死にます」と言いました。私は、思いました。「この人は、人の心を持っていないなあ」と。私は、そんな屁理屈を言うクリスチャンなんか、大嫌いです。何が専守防衛だ、家族ぐらい守れよ、と言いたいですね。左翼クリスチャンの皆さん、少し、共産党路線から離れてみませんか。












 




 















 

 






 











 
  

ありますから、



























 


2017年9月28日木曜日

嘘に騙されない






 高山正之の「中国と韓国は息を吐くように嘘をつく」を読みました。ただし、タイトルと内容はあんまり関係ない。世界に起きていることの「見かけ」と「真実」とが、あまりにかけ離れているということを、さまざまな例を挙げながら、明らかにしている本です。もちろん、推論もあります。


 真珠湾にルーズベルトは「おとり」を置いて、日米戦争を仕掛けました。戦争を仕掛けるおとりは、250人ぐらい。ジャクソン大統領がメキシコと開戦するのに、アラモノの砦で義勇軍250人を見殺しにして、「アラモを忘れるな」とやりました。マッキンリー大統領も、戦艦メインをハバナ湾で爆発させ、266人を殺して、スペインと開戦しました。だから、おとりに死ぬのは、250人ぐらい。

 それで、太平洋艦隊を真珠湾に集めた時にも、「水深14メートルの湾では魚雷が使えない」「日本人はおんぶして育つので、三半規管がおかしく、急降下はできない」(軍事評論家フレッチャー・プラット)という判断から、250人と踏んでいました。ところが、19発の魚雷が米艦隊の横腹に大穴を開け、急降下爆撃で戦艦アリゾナが沈みます。戦死した軍人は、2800人に及びました。

 ルーズベルトの目論見は外れました。その後、欧米の植民地は日本軍によって次々と解放され、アジアの人々は、白人が降伏して行く姿を見て、白人は神のような存在だという「白人神話」から自由になりました。ルーズベルトは、自分が仕掛けた戦争で、欧州から植民地を奪ったという責めを負います。しかも、アジアを解放した日本を叩けば、「日本はアジアの解放に殉じた英雄になってしまう」(コーデル・ハル)という、窮地に立たされました。

 それで、マンハッタン計画となりました。ルーズベルトの後を継いだトルーマンは、躊躇することなく、広島、長崎に原爆を投下し、一瞬で20万人を焼き尽くしました。アメリカは再び、神となりました。アメリカのオバマ大統領は、昨年初めて広島を訪れ、その偉大な成果を再確認しました。オバマは、原爆投下に拍手する人物ですが、しかし、安倍晋三首相は、アメリカと日本の同盟のために、この和解劇の準備をして来たと言われています。日本の未来のために。


 アメリカはずっと、国際紛争で利益を得てきました。そのためにCIAが組織され、中東に干渉を始めます。イランのモサデク首相は、石油の国有化をして、イランの国益を担保しました。CIAは市民デモを起こし、モサデクを降ろして、パーレビを国王にすることで、石油利権の四割を得ました。このパーレビが中東に指導力を持つようになると、狂信的なシーア派を扇動して、ホメイニ師を立てました。アメリカは、イランゲートを使って、武力援助を続けました。

 次はイラクでした。フセインは、イスラムでは中東は統一できないと、イスラムを捨て、アラブ民族主義で中東を統一しようとしました。今はイスラム国となった過激な人々も、フセインのもとでは幸せに暮らせました。しかしアメリカは、「大量破壊兵器を持っている」「フセインはシーア派を虐殺したスンニ派の親玉」として、シーア派に怒りを抱かせ、彼を虐殺させました。今は、イラクは、シーア派とスンニ派の殺戮の場所となってしまいました。

 その次にリビア。カダフィーを倒すために、CIAは「アラブの春」を演出しました。指揮をしたのは、国務長官だったヒラリー・クリントンでした。反カダフィー派に武器を供与し、NATO軍機を5000回も出撃させて、カダフィーを殺しました。アラブの春は、エジプトにも飛び火し、ムバラク政権も倒れました。こうして中東は、有能な指導者が倒され、混迷の中に陥れられました。

 次にヒラリーは、シリアのアサドを倒そうとしました。すでに「悪者アサド」のプロパガンダは功を奏していました。ところが、ヒラリーがシリアのベンガジの大使に、反政府組織に武器を送るように私的なメールをした後で、 大使館が襲われ、大使が殺されます。「大使館が武器商人だった」というスキャンダルを恐れて、ヒラリーは国務長官を辞任し、病院に逃げ込みました。ところが、大統領選挙で、このメールの中身が事件となってしまいます。

 2015年の10月に、共和党のヒラリー査問会は、「ヒラリーは、アラブの安定を崩すために、アラブの春を演出させた。リビアをつぶし、次にシリアにアメリカ製の兵器を運び込む算段をしていた時に、アメリカの大使が、ベンガジで、予期せぬ攻撃を受けて殺された」件をとり上げました。 ヒラリーもたじたじでした。人種差別国家のノルウェーは、ノーベル賞を授与として、チェニジアのアラブの春を称賛した…その背後に、ヒラリーの金儲けがありました。


 夫のクリントンも、在任中に行っていた「人体実験」の謝罪をしました。アラバマ州のタスキギーの人体実験で、1930年代から40年間、黒人の梅毒患者を治療せずに、感染の拡大を観察していたもので、400人が犠牲になりました。1972年に、AP通信の女性記者が記事にし、実験は中止されましたが、それから27年後の1999年に、初めて謝罪がありました。それをきっかけに、グァテマラなどでの人体実験が明るみに出ました。

 タスキギーの人体実験は、「黒人の性生活の調査」も行っていました。その結果、夫婦と子供五人の家庭の場合、四人は父親の子供ではないという結果が出て、黒人コミュニティーの乱交状態がわかりました。それを受けて、黒人を淘汰するためには、性感染で致死に至る病気が有効だという研究が始まり、その10年後に、出所不明のHIVが登場したのでした。


 アメリカは狡猾なのに、日本人は「真実」ではなく、「見かけ」にすぐに騙されてしまいます。戦後、アメリカは日本を支配するために、「自虐史観」を植え込みました。アメリカは、20万人を原爆で殺した罪を、「日本人が悪かったからだ」と責め続けることで、言い逃れをしようと決めました。そのために、アメリカの手先になったのが、朝日新聞でした。

 自虐史観が色あせ始めた時に、朝日新聞の中江利忠社長は、アメリカの国務長官の指示で、従軍慰安婦問題を捏造しました。その後、広岡知男社長は、南京大虐殺事件を捏造しました。ところが、アメリカにもっとやれと言われて、中江利忠は、「都城23部隊の残虐」という補強をしましたが、部隊の生存者の訴えで、偽写真だとバレ、謝罪を求められましたが、証拠の開示を「秘守義務」があると、固辞しました。一柳東一郎社長は、サンゴ礁の落書きの写真を掲載して、「すさんだ心根の日本人」と訴えましたが、自分が落書きをしたことがバレて、辞任しました。

 なかなかうまく自虐史観を植え込めないところで、渡辺雅隆社長は、吉田清治を登場させ、「済州島で慰安婦強制連行」の記事を書かせました。南京大虐殺の証人は、マギー・ベイツという嘘つき宣教師でしたが、吉田清治は日本人で、「自分は加害者だ」というのですから、信憑性がありました。しかし、アメリカ軍が朝鮮人慰安婦に聞き取り調査をしたところ、「自分たちは単なる売春婦で、生活の収入も保護されていたし、自由だった」という答えだっので、矛盾は隠せませんでした。

 「見かけ」に弱い日本人を、どうやって騙すのか。阪神淡路大震災で、「死ななくてよい2000人の市民を殺した」(石原慎太郎)という、社会党の首相が簡単に騙されました。彼は、50回目の終戦記念日に、「日本は国策を誤り、戦争への道を歩み、植民地支配と侵略によって、アジア諸国の人々に、多大な損害と苦痛を与えました」と「村山談話」を発表しました。どう国策を誤ったのか、いつ植民地支配をしたのか、何の説明もありませんでした。

 村山首相は、ドイツのワイツゼッカー首相の85年演説、「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」という名言を自分もやりたかったのでした。しかし、ワイツゼッカーは、「全部ナチスのせいだ」と言っていて、「私たちドイツ人に謝罪するいわれはない」と、戦争責任や、賠償義務を拒否した人です。過去に目を閉ざしているのは、ドイツ人でした。ゲルマン民族のユダヤ人虐殺は、ナチスに始まったことじゃない…ずっと、皆殺し、火あぶりを繰り返してきました。

 なんでワイツゼッカーになろうとしたのか。原稿を作ったのは、河野談話も作り、後に、東芝の監査となって粉飾決済にかかわった、谷野作太郎でした。 GHQのマッカーサー司令官は、アメリカの議会で、「大東亜戦争は、窮地に立たされた日本が、やむにやまれずに戦った自衛のための戦争であった」と証言をしたのです。その「自衛のための戦争」を、「侵略戦争」だとしたのが、村山談話でした。英雄となろうとした、日本のワイツゼッカーは、日本を嘘で辱めました。

 その後、朝日新聞は、吉田清治がうまくなかったので、場所をソウルに変えて、記者の植村隆に「金学順物語」を書かせました。何のことはない、親せきに身売りさせられた、売春婦の証言なのですが、中央大学の吉見義明教授が、「日本軍関与」「慰安婦は性奴隷」と書きました。そのため、韓国に訪問する予定の宮澤喜一首相は、驚いて謝罪します。それに、河野談話、村山首相の閣議決定で、日本人は、「20万人を性奴隷にした皇軍」という。自虐史観を受け入れました。

それを突き崩したのが、第二次安倍内閣でした。内閣官房副長官であった石原信雄への聴取から、河野談話の嘘を暴き、「朝日新聞は、吉田清治という詐欺師の嘘を広めた」と糾弾し、朝日新聞も嘘を認めました。あとは、河野洋平、中江利忠を証人喚問すればいいところで、岸田外務大臣が、ソウルに出向いて、「日本軍関与」を認めるような発言をしてしまいます。慰安所の保護という意味だとしても、相手側には、「性奴隷にした」と受け止められかねない失態でした。


 「見かけ」で人は判断してしまいますから、「真実」はなかなか分かってもらえないものですから、アメリカ人や、中国人、韓国人の策略に引っかからないように、もう少し賢く、真実を良く見抜いて、対外的には行動すべきです。そうしないと、日本人は、見かけに騙された挙句に、地球上から消えて行ってしまいます。子孫が生き残るために、もう少し賢くあってほしいものです。

 









 

















 

2017年9月12日火曜日

父の謝罪碑を撤去します



  大高未貴「父の謝罪碑を撤去します」を読みました。

 現在、吉田清治氏の謝罪碑を撤去しようとしたために、奥茂治氏が韓国警察に拘束されています。吉田清治は、「従軍慰安婦問題」を世界に広めた最初の人で、そのご長男が、父親が行った捏造事件を謝罪したいと、奥氏に謝罪碑の撤去をお願いしたのです。実際は、謝罪碑はかなり大きなもので、撤去は難しく、その碑文を覆うように、謝罪ではない碑文をはめ込みました。

 謝罪碑は、1983年に建てられたもので、次のように書かれていました。
 「あなたは日本の侵略戦争のために徴用され、強制連行されて、強制労働の屈辱と苦難の中で、家族を思い、望郷の念むなしく、尊い命を奪われました。私は徴用と強制連行を実行指揮した日本人のひとりとして、人道に反したその行為と精神を、潔く反省して、謹んであなたに謝罪いたします。老齢の私は、死後もあなたの例の前に拝跪して、あなたの許しを請い続けます。」

 朝日新聞は、「たったひとりの謝罪」と題して、彼の跪く姿の写真とともに、1983年12月15日の新聞に、大々的に報道をしました。その後、吉田清治の話は虚言らしいと、学者たちの間でも問題視されるようになり、2014年の12月24日に、朝日新聞はこの記事を取り消し、さらに謝罪を求められたので、不承不承ながら、部分的な謝罪をします。しかし、「従軍慰安婦問題」は、虚偽であると分かっても、どうしようもなく世界に拡大していました。

 ご長男は、せめてのも罪滅ぼしと、謝罪碑の碑文を、新しい碑文で覆ったのでした。
 「慰霊の碑 吉田雄兎 日本国 福岡」(雄兎は清治の本名)

 吉田清治の碑文には、「慰安婦」の文字はありません。彼の謝罪は、実はサハリン訴訟、すなわち「樺太残留韓国人帰還請求裁判」(1975-1989)に対するもので、ソ連が日ソ不可侵条約を破って侵攻したため、取り残された韓国人の慰謝料を日本が払え、というものでした。以後、日本は80億以上の「サハリン支援金」を払い続けており、今年も1億1100万円を支払っています。それを「慰安婦」の問題としたのは朝日新聞で、韓国の「戦後賠償ビジネス」の片棒を担いだわけです。

 吉田清治は、自分は済州島で慰安婦狩りをした責任者だと言い、それを取り上げたのは朝日新聞でした。「朝鮮の女性 私も連行 暴行加え無理やり」(朝日新聞1982年9月2日)は、現在は取り消されていますが、当時の日本国民にショックを与えました。吉田氏は、三年間、10数回に渡って朝鮮半島に行き、直接指揮して、日本に強制連行したと語りました。その人数は6000人、そのうち950人が従軍慰安婦となった、と語りました。ご長男は、「父は済州島に行ったことはない、と話していました」と言い、済州島の地図を見ながら、記事を書いていた、と証言しています。

 吉田氏は、労務報国会下関支部動員部長として、済州島の慰安婦狩りの体験を、まことしやかに、生々しく語っています。
 「塩乾魚の製造工場に行った時に、隊員に肩をつかまれた若い娘は、悲鳴を上げて隊員の手を振り払った。年取った女が娘を抱きしめて叫び立った。…服が裂け、胸元が裸になった娘が泣き叫んで、塩かますにしがみつくと、隊員に腰を蹴られて転がった。この島の娘は、足は素肌で、ばたついて暴れたが、隊員は足首をつかんで、笑いながら引きずり出した。」(「私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行」三一書房)
 「完全武装の日本兵10人がトラックで同行し、集落を見つけると、兵士が包囲し、私の部下9人が一斉に突入した。若い女性の手を捻じ曲げ、路地に引きずり出し、ホロのついたトラックに押し込んだ。連行の途中、兵士たちはホロの中で集団暴行し、手あたり次第、狩り出しは続いた。…」(朝日新聞1982年9月2日の記事)

 このような記事がほんとうかという問いに、吉田氏は、次のように答えています。
 「本に真実を書いても、何の利益もない。事実を隠して、自分の主張を混ぜて書くなんてことは、新聞だってやっていることじゃありませんか。」(週刊新潮1988年2月9日)
 朝日新聞だって嘘ばかり書いているんだから、自分が嘘を書いてどこが悪い、といった調子です。問題は、この嘘が世界中に、事実として受け止められていることです。

 今年から、米カルフォルニア州の公立高校の教科書には、「制度化された性奴隷の例」として、「慰安婦は戦前、戦中と、領土を占領した日本軍によって、性的サービスを強要された女性たちのこと」として挙げられています。アメリカ合衆国の下院121号決議には、「慰安婦は、残虐性と規模において、前例のない、20世紀最大の人身売買のひとつである」となっています。世界中に、慰安婦の捏造が広まると、日本人が海外で暮らすのに、子どもが学校でいじめられるなど、支障が出てきます。その源が、根拠のない「吉田証言」にあるのです。

 吉田氏の所属したという「山口県労務報国会下関支部」というのは、慰安婦狩りの組織ではなく、下関市内の大工、左官、土木工事の人々を、日雇いで雇うための現場監督の組織ですが、吉田氏が在籍していた記録はありません。けれども、「下関肥料株式会社」の取り締まりだった記録は見つかって、労務報国会の余った肥料を、お百姓さんに回していたようですが、すぐに倒産しています。その後は、借金取りに追われて、逃げ回る日々を送っていました。

 ある時に、NHKラジオの「ラジオと私」という番組に投稿し、懸賞金10万円を獲得します。その後、週刊朝日の「私の8月15日」という公募に、「私は朝鮮人をかばって、軍刀を振り回して守った」という記事が載ります。一般人が軍刀など、持っていないはずですが、彼の記事は感動的で、朴慶植の「朝鮮人強制連行の記録」(未来社)の中に引用されています。この頃から、彼の著作活動が始まりました。

 1965年前後には、小野田化学工業の寮の管理人として、住み込み、ふたりの男の子を育てています。貧しかったので、ふたりの男の子は、ソ連が社会主義宣伝のために留学生を募集していたものに応募してソ連に渡りました。途中で退学したふたりでしたが、日本に帰ると、ソ連をスパイするために公安に雇われました。吉田氏の生活は安定し、著作活動を再開、朝日新聞川崎支局に売り込んで、「連載 韓国・朝鮮人2 命令忠実に実行 抵抗すれば罰」で、再びデビューします。

 しかし、なんで吉田氏は、これほどに慰安婦問題にこだわるのでしょう。ある日、鶴見署の前でと下座する吉田清治がおりました。事情を刑事が聴くと、「大韓民国中央情報部(KCIA)から、息子を公安で働かせるな、と言われた。私は彼らにお金を借りているから、やめさせてほしい。」というものでした。ふたりの息子が働いて、借金などあるはずもないと思われるのですが、何かの力が働いていたのでしょう。

 やがて「吉田証言」は信用されなくなり、朝日新聞も、同社の植村隆記者が、元慰安婦の金学順の証言などをインタビューして、口伝の実名証言を行うようになっていきます。 吉田氏は、1896年には、千葉県我孫子市に引っ越し、2003年に、直腸ガンで死ぬまで、寂しい生活を送りました。晩年の吉田氏は、
 「私はバチカンに行って、外務省の手の届かないところで証言をする。外務省は軍国主義となって、社会党も私の証言を取り上げなくなった。実は、アメリカ人シスターも、慰安婦にされていた。イスラム教信者も、モスクの中で強姦されたんだ」と、80歳とは言え、めちゃくちゃな証言をするようになり、だれも取り合わなくなってしまいます。

 朝日新聞が、吉田氏に代わって、従軍慰安婦問題の一大キャンペーンに乗り出します。「忘れられた人々」と題して、「国家間は解決したと言っても、民間では解決していない」という論陣を張りました。
 
 東丘いずひという、劇団「夢屋」を率いる女優は、慰安婦問題を知って、演劇活動で社会に訴えました。「従軍慰安婦」(1987年)「女子挺身隊」(1988年)と、次々に講演を始めました。その後、慰安婦問題と取り組む団体「韓国挺身隊問題対策協議会」の尹貞玉(ユン・ジョンオク)代表から、応援を求められるようになりました(1991年)。

 ところが、翌年、衆議院議員会館で東丘さんが尹さんとお会いすると、態度は豹変していました。募金も署名もいらないと、断られてしまったのです。25万円の募金と2500人の署名では、少なすぎるのでしょうか。会談中に、土井たか子議員の秘書が、「いつものものです」と、数百万円は入っているであろう、封筒を届けに来ます。社会党の支援があるから、要らないというのでしようか。実は、「国家賠償ビジネス」は、大きな岐路に立っていました。

 社会党は、慰安婦問題を取り上げるようになっていました。その背景には、1989年のベルリンの壁の崩壊、1991年のソ連の崩壊があります。社会党は、ソ連からの多額の支援金を受けられない状態になっていたのです。 そのために、「国家賠償ビジネス」から資金を得ようとしたいたのでしょう。ビジネスの形は、やがて、「河野談話」(1993)「村山談話」(1995)によって、基礎を据えられて行きます。東丘さんが裏切られたのは、民間から国家へと、ビジネスの形が変わったからでした。

 実際、1997年の慰安婦のための基金も、慰安婦のもとには行きませんでした。「日本からのけがれた金を受け取れば、ほんとうの娼婦になる。受け取った七人は娼婦だ。」という国民世論がありました。個人が個人にではなく、国が国にとなります。さらに、1992年になると、「朝鮮日本軍性的奴隷及び強制連行被害者補償対策委員会」が作られ、慰安婦問題は、北朝鮮と南朝鮮の「共同事業」となっていたのです。東丘さんが切り捨てられるのは、そういう理由によりました。

 長男が、吉田清治の記事が出始めた時のことを、回想しています。家賃が5万のところから、12万のところへと引っ越しました。父親は、「500万や1000万はすぐに入って来る」と言っていました。周りには韓国の人々がいて、彼が韓国に行くのは特別待遇、パスポートもスタンプが押されずに、「あなたは立派なことをしている」と韓国の人々にほめそやされました。彼の後に、加藤紘一、宮澤喜一が、軍の関与を認めて謝罪をします。大成功でした。けれども、これでよかったのでしょうか。

 国を売って、父や母たちを辱めて、世界中に日本人を恥ずかしい民族だと貶めてしまって、これで良かったのでしょうか。 もちろん、いいはずがありません。国家賠償ビジネスに騙される日本人がいても、お人好しで済みます。けれども、「父と母を敬え」とある、聖書の教えを破って、神さまにさばかれないはずはありません。吉田清治は、日本人の敵となりました。そのご長男が、父親の謝罪碑を撤去したいと願う…悲しい息子さんの胸の内がしのばれます。日本人を売ってはいけない。日本人は、誇り高い民族です。「従軍慰安婦」なとど、愚弄するような言葉さえ、私は忌み嫌います。政治的な判断とはいえ、「日韓合意」などありえません。嘘は嘘なのです。







2017年9月8日金曜日

生贄の島







 曽野綾子の「生贄の島」を読みました。

 1945年4月1日の米軍の沖縄上陸から、6月22日の沖縄占領、その後、9月まで続く、抵抗する日本人の投降までの、今ならば、中学2年生から大学2年生までの若い女学生たちの従軍の記録です。激しく攻撃を受け、次々と死んで行く中で、彼女たちは実に無邪気で、勇敢で、正しく、また明るかった。悲惨な戦場を描きながら、その明るさは、人間の尊厳に満ちていました。

 米軍が上陸した4月1日は、復活祭の主の日でした、米軍が上陸した海辺は、神の国のように美しく、地雷などの心配もない、平和に満ちた場所でした。読谷村に着くと、壕の中に隠れていた家族は、十字架を握りしめたカトリック教徒で、白髪の老人は威厳に満ちた態度で、米兵に投降しました。 この最初の出来事は、「信仰による終戦」でした。沖縄のとるべき態度でした。

 負けたとわかれば投降すればよかったのです。相手は残虐な中国ではなく、キリスト教倫理を持った米国でした。けれども、日本のマスコミは彼らを「鬼畜」と喧伝し、教育は徹底抗戦を教えました。女学生までも、捕まれば強姦され、殺されると教え込まれました。確かに、アメリカが引き起こした戦争ですが、彼女たちには生き残る逃げ道がありました。それを絶ったのは、投降を許さなかった、大人たちの教育でした。「教師が捨て、アメリカが生かした」(仲宗根)のでした。

 日本兵は、女学生に言います。「君たちは何があっても、絶対に死んではいかん。死んでも何にもならんよ。生き残れば、それがお国のためになる。アメリカ人に会ったら、どうすればいいかわかるね。」「噛みついてやります。」「噛みつく代わりに、逃げなさい。」―無邪気だけれど、そう教育されてしまっているのです。米軍に押されて、砲弾で次々に死んで行く中で、彼女たちは、負傷兵のお世話をしながら、南へ南へと逃げていきます。やがて、戦死者は毎日のこととなります。

 南に行くと、まだ爆撃されていない民家があります。彼女たちは、キャベツでボール代わりに投げ合ってはしゃいだり、髪の毛をオシャレに結わえて笑っています。「私たち、恋愛もしないで死ぬのかしら。」「こんな時だからこそ、素敵な騎士でも、現れそうな気がするの。」 …兵たちの中には、死んだ兵士の靴や水筒を奪う者がいました。「死んだ人のものをとるなんて…。」と、彼女たちは悲しみました。爆音で突っ伏す兵士の姿がおかしくて、くすくす笑っていました。足のない兵士のために、みんなで杖を作ったりしました。

 女学生の多くが次々と死んで行きました。「私たちも死ぬわ。」と決意すると、大尉は「馬鹿なこと言うもんじゃない。お前たちは女子供じゃないか。アメリカは文明国だ。女子供には何もせん。」と留めました。兵士たちは、「死ぬだけが能じゃない。」と諫めて、自らは死んで行きました。壕の外では、「白旗を持って歩きなさい。自決してはいけません。着物も、食料もあります。命は保証します。」と呼びかける、米兵がおりました。それでも、女学生は出れませんでした。

  6月22日に、沖縄は占領され、星条旗が沖縄の地にはためきました。壕の女生徒は、「殺してください」と少佐に懇願します。「覚悟ができたのか」「はい」―それから、「水浴びさせてくれ」と離れた少佐は、「お姫さま、すまなかった。どうか生き抜いて、お母さんになってくれ。」と言づけてきました。行く当てもなく、壕の外に出た女生徒の前に、米兵が近づいてきます。妹の方が、「お姉ちゃん。死ぬのはよそうよ。死なんで、捕虜になろうよ。」と言うのでした。

 ゴザ市の米軍の野戦病院に着くと、DDTを頭に振りかけられ、体を洗うように言われ、衣服が与えられ、白いパンと肉料理と、薬が与えられました。「これが米鬼なのか」…まるで子供のように見えた女生徒には、ビスケットが与えられました。重症の女生徒のそばで、じっと見守っている、米軍の兵士がいました。逃げ出そうとする女生徒を、心配して、目を離そうとしない兵士もいました。

 逃げ惑って壕に入って、6-70体の女学生の遺体に遭遇した女生徒もいました。それは、全滅したひめゆり隊でした。壕を出ると、米軍のジープが近づいて来て、三人の兵士が彼女を取り囲みました。手りゅう弾を抜いて死のうとすると、兵士がとびかかって、彼女をとめました。


 仲宗根は、自殺するには足らないわずかな手りゅう弾をもって、岩の上に現れた米兵と向かい合っていました。「先生、手りゅう弾を抜きます」―皆が死ぬには、生徒が多すぎました。「抜くな、しばらく待て」と仲宗根がとめます。小さな男の子が、泣きながら歩き出して、米兵の脚をつかみました。「ドント・クライ・ベイヒー」、兵士は男の子の肩に手を置いて、そう言ったのでした。米軍の若者たちも、優しい心を持った人間でした。

 タイトルの「生贄」は、彼女の作品を利用した左翼活動家が言うように、「沖縄は生贄にされた」という意味ではないでしょう。日本の国は道徳的に民度が高い国でしたが、「米鬼」と教えるマスコミの犠牲になったのではないでしょうか。その教育が、ひめゆりを初めとした多くの犠牲者を出したのではないでしょうか。国と国は国益をかけて争いますが、キリスト教的価値観があるならば、「信仰による終戦」は、初めから用意されていたはずです。

 私は、もう「マスコミの生贄」を作ってはならないと思います。日本の兵士たちも、彼女たちに生きてほしいと、死んで行ったのです。













2017年9月1日金曜日

クリスチャンの道徳心




  4月に亡くなられた知の巨人、渡部昇一氏の「日本人の道徳心」を読みました。日本は戦後、道徳心という大切なものを失いました。その道徳心は「教育勅語」を土台としたものでした。教育勅語はわかりやすく「修身」として子どもたちに教えられていました。思い出せば、私の両親も、「よく学び、よく遊べ」と教えてくれました。それは修身の教科書の最初に書かれていることでした。


 修身は、義理、人情、思いやり、忠義、善行を教えるものでした。困っている人がいれば、喜んで助けました。昔の人は、教育勅語が教える、古き良き伝統の世界、幸せな世界を生きていました。「朝読み」といって、朝一番に学びました。学んだ分、学力が付きました。「学べ」という命令が道徳であって、理屈では教えられないのが道徳です。良いものは良い、ダメなものはダメなのです。

 明治以前は、日本の根本は神道で、それに仏教と儒教がバランスよく混じっていました。独特の宗教観がありました。そこに、明治維新が起きて、西洋の思想が入ってきました。それまで、多少儒教に傾倒していた日本人は、アヘン戦争を見て、中国の儒教に疑問を抱き始めます。西洋の価値観の侵入と、東洋の価値観の揺らぎ…明治天皇は、危機感を持たれて、教育勅語を発布されました。その作成を、儒学者の元田永孚(ながざね)と、西洋通の井上毅に託しました。

  教育勅語の12の徳目は、次の通りです。

1.親に孝養をつくしましょう(孝行)

2.兄弟・姉妹は仲良くしましょう(友愛)

3.夫婦はいつも仲むつまじくしましょう(夫婦の和)

4.友だちはお互いに信じあって付き合いましょう(朋友の信)

5.自分の言動をつつしみましょう(謙遜)

6.広く全ての人に愛の手をさしのべましょう(博愛)

10.広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう(公益世務)

11.法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう(遵法)

12.正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう(義勇)

 これらは法律ではなく、明治期の道徳的な混乱をともに乗り切っていこうという、天皇の願いでした。日本には在来の宗教があり、外国から新しくキリスト教が入ってくるときに、宗教色のない、普遍的な道徳的な価値観に立とうとしたものです。確かに、これは宗教ではありません。そのため、その解説書である修身は、「The Book of Virtues」という本になって、アメリカで、3000万部を超えるベストセラーとなりました。その普遍的な価値が証明されたわけです。

 このような非宗教的な道徳は、石田梅岩の「心学」という形で、江戸時代からありました。それは、儒教、仏教、神道、武士道、キリスト教…何でも利用して、心を磨きなさい、というものでした。教育勅語は、そのような心学であったと理解できます。修身は、「糸がもつれたら、切ってしまうのではなく、辛抱して解きなさい」と、忍耐を教えます。「重い荷物を持っている人がいたら、その荷物に棒を通して、ふたりでかついであげなさい」と親切を教えます。そのような忍耐や親切が修身です。

 また、「貸したまりをなくしてしまったと、友だちが詫びて来たなら、『過ちだから仕方がない』と赦しなさい」と、赦しを教えます。今の時代の人は、被害者意識が強すぎて、赦しを忘れています。あるいは、「弁償しなさい」とお金ばかりです。赦すことができれば、どんなに心が楽になるか、と修身は教えるのです。現代の教育は、エリートを生み出しますが、道徳心のないエリートは、社会を悪くしてしまいます。今の日本の教育基本法は、道徳を教えていないからです。

 敗戦後、共産主義者は、GHQに取り入って、戦前の日本は悪かった、軍国主義だったと、悪口を言うことで、その地位を守ろうとしました。彼らは、進歩的な文化人と自称しましたが、教育勅語を廃止させることで、日本古来の民主主義を破壊してしまったのです。アメリカは民主主義の国のようで、実は、共産主義と同じです。わずかにエリートが支配する独裁国家という意味では、アメリカの民主主義は、日本の民主主義の比ではありませんでした。

 教育勅語が廃止されても、修身にみられる日本人の道徳心は、根強く残っていました。東日本大震災の時、トモダチ作戦で救助してくれたアメリカの兵士は、「あっちに、もっと困っている人がいるから、そちらを先に助けてあげてください。」という日本人の道徳心に驚き、「これがほんとうの文明国だ」と、日本人の民度の高さを評価したのです。今でも、外国人の日本人の評価は、「礼儀正しい」「勤勉である」というものですが、修身の精神と一致しています。

 「目に見える 神に向かいて恥じざるは 人の心の まことなりけり」(明治天皇 御製)

 目に見えない神さまがおられる、その神さまの前に、恥ずかしいことはできないというのが、日本人の根底にあります。それが、〇〇教という形をとらずに、普遍的な道徳意識となっているのです。私も両親から、「正直に生きなさい」と教えられて育ちました。けれども、戦後の日本人の中には、教育勅語を否定し、修身を軽んじる、悪い人間たちが増えました。助け合い、尊敬し合うのではなく、負の感情をもって、足を引っ張る人が増えました。卑しい言葉を使う人が増えました。

 「日本人は性善説だ」と言う人がいますが、少し違います。孟子は、「人は善を行うために生まれた来たのだから、心を磨かなければ、善にはならない」と教えました。生まれつき善人だというよりは、善人になっていくのです。そのために、「絶えず心を磨く」という心学を持たないと、どんなに知的にエリートでも、恥ずかしい人間になってしまいます。心を磨く心学をしない、不学な人は、年を取るとタガが緩みます。秀吉は、政治的な天才でしたが、不学なために道徳心を養えずに、晩年、変わってしまいました。

 「民のため 心のやすむ時ぞなき 身は九重の 内にありても」(明治天皇 御製)

 天皇は、国家国民のために祈り続ける務めを負ってきました。特に、民の生活を心配し、大嘗祭には、お米を賜る神様に感謝し、新嘗祭には、新米をいただいて民は喜んだのです。日本は、祭司である天皇と、その宝の民である国民が、一体となった社会です。天皇は、「日出処の天子」であるために、太陽のシンボルで表されます。それが日本の国旗です。そして、クリスチャンにとっては、その天皇の上に、大祭司であられるキリストが、すべての国民のために祈っておられるのです。私たちには、日の丸は、天皇であるとともに、義の太陽キリストのシンボルです。

 教育勅語も、修身も、聖書の教え、神さまの御言葉の予型のように思います。万人共通の道徳が教育勅語、修身であるとすれば、キリストの信仰が現れて、恵みが豊かに注がれて、それにまさる義があかしできれば、どれほど「世の光」となることでしょう。けれども、戦後、この共通の道徳が否定されたばかりが、クリスチャンが、それを非難しているのです。それが実に痛ましいことです。パリサイ人にまさる義がなければ、天国に入れないとイエスさまはおっしゃったのに、 パリサイ人の義にも及ばないとは…。道徳心のないクリスチャンになってはいけません。


















































































































2017年8月30日水曜日

経済と大東亜戦争






 大東亜戦争に日本を導いたのは、「アメリカ陰謀論」を広めた尾崎秀美(ほつみ)のような、政権内部に忍び込んだ共産主義者のスパイでした。彼らの情報操作によって、「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」(暴虐な志那を懲らしめよ)「対米開戦やむなし」「バスに乗り遅れるな」と、国民は諸手を挙げて戦争の拡大を支持しました。朝日新聞も、「鬼畜米英」のスローガンを掲げて国民を戦争に駆り立て、売り上げ部数を三倍に伸ばしたのでした。今は、朝日新聞は、中国のプロパガンダとなって、日本の領土化のために政権叩きをしています。彼らをコミンテルンと言います。

 日本の軍部は海軍と陸軍が予算の取り合いをしていて、 開戦には消極的でした。しかし、近衛文麿が内閣となって、革新派が政権をとると、ソ連共産党とかかわりのある人々が政権内部に入ってきます。時に、日本は不況にあえいでいました。第一次世界大戦は、好景気をもたらしましたが、近衛文麿のような新体制運動は、「金本位制」に戻そうとする愚を犯します。金本位制は、金の量だけお札をするという考え方で、大戦中は軍費が必要なため、金本位制を破ってお札を刷りました。それを金本位制に戻すというのは、お札を回収するわけで、お札が不足すればデフレになって、不況となってしまいます。1918-1930年は、このような悪夢の10年で、それを高橋是清が「財政金融政策」によって回復させますが、近衛文麿は、金本位制に戻して、不況にしました。

 第一次世界大戦は、ドイツに多大な借金を負わせるベルサイユ体制を生みます。それは、アメリカに金が吸い上げられるための仕組みでした。戦勝国の日本は豊かになったはずなのですが、1930年の1月に大蔵大臣の井上準之助が金本位制を復帰させます。不況の扉を開いたところで、1929年の12月、ひと月前のウォール街の株価の大暴落が日本経済を襲います。昭和恐慌は、貧しい農家の生活を襲い、1932年の5.15事件、1936年の2.26事件となりました。2.26事件は、高橋是清を殺すことで、成功をし始めた財政金融政策を止めさせ、続く馬場鍈一大蔵大臣は、金本位制による不況への道を選んだのです。金本位制は、所有する金の量しかお札を刷れませんから、経済の発達を阻害するのは目に見えて明らかなのに、人々は金本位制を信仰していたのです。
 
 ドイツもベルサイユ体制の中で多額の返済金に迫られ、労働者の給与は三割以上カットされる状態ですから、デフレの不況状態です。人々は、共産主義か、ナチスかに救いを求めました。ナチスは4か月で共産党を駆逐し、一党独裁を実現しました。アメリカも金本位制による不況の中にあって、ルーズベルトの周りにはたくさんのコミンテルンがいて、反日キャンペーンによって、国民の不満を逃れようとします。日本では、北一輝のような共産主義者が、若い軍人に影響を与え、2.26事件となります。石原莞爾が戒厳参謀となって制圧し、北一輝も処刑されたのでした。アメリカも、サンフライシスコ大地震が恐慌のきっかけと言われますが、復興資金をイギリスに求めたところ、イギリスが金の流出を拒んだことが原因なので、金本位制信仰のため不況となったわけです。

 日本の場合も、第一次世界大戦の戦勝国となって、豊かになったところに関東大震災が襲います。東日本大震災が、国家予算の17パーセントの損害だったのに対し、関東大震災は、国家予算の5倍の損害を与えました。そのために、5.15事件、2.26事件のような、共産主義的な暴力革命が起きたわけです。せっかく復興に向かっていたところを、高橋是清を暗殺することで、金本位制に戻って、さらなる不況を招きました。ドイツの場合は、15億ポンドが妥当なところが、60億ポンドの賠償要求が行われ、ナチスの台頭以外に救いの道がありませんでした。これは、当時の国のリーダーが、民衆の中から立てられたアマチュアで、帝王学を学んでいなかったことによります。帝王学によれば、相手が死に物狂いで戦いを挑むような要求はしないはずです。

 日本はアメリカに宣戦布告し、太平洋戦争を始めましたが、出発点から間違えていました。アメリカと戦わざるを得ないなら、フィリピンのアメリカ軍と戦えばよかったのです。しかし、山本五十六は真珠湾攻撃を主張し、辞表で脅かして、それを実行に移しました。彼の無能さは、ミッドウェー海戦で、二倍の兵力を持ちながら、アメリカに負けたところに明らかです。いいえ、真珠湾を攻撃しながら、占領しなかったところにも、その愚かさが明らかです。しかし、日本人は人格者を好みます。彼もまた、軍人としての能力には欠けましたが、英雄となりました。

 日本の植民地政策は、今の日本が行っているのと本質的には同じ、「海外投資」でした。 日本人が増えすぎて、海外に職場を求める必要がありました。アメリカに石油などの必需品の八割を依存しておりましたから、資源の供給地が必要でした。また、デフレでモノが余っていましたから、それを売れる場所も必要でした。そのために、ビジネスとして、日本の東北のような貧しい地域を後回しにして、海外のインフラを整え、鉄道を敷いたり、学校を立て教育したり、治安の維持に努めました。欧米のような、現地民を奴隷のように搾取する政策ではありませんでした。植民地化されたアジアの人々は、日本人をアジアの解放者と捉えました。人々は、日本の植民地をめがけて、移住してきたのでした。そのために、植民地は人であふれかえりました。

 朝鮮併合 900万人 → 2300万人
 台湾併合 100万人 →   600万人
 満州設立 300万人 → 4000万人
 
  インドネシアでは、やがていつか、「黄色い神」がやって来て、白人の奴隷支配から自分たちを解放してくれる、という伝説がありました。落下傘で舞い降りた日本の軍人は、彼らの伝説の成就でした。植民地となった朝鮮では、病人のために若者が指を詰める「指詰め供養」、長男を生んだ母親が乳を出す「乳出しチョゴリ」、股の肉をささげる「割股(かっこ)供養」、糞をなめて健康を診断する「嘗糞(しょうふん)」といった風習を禁止しました。そのために、日本の軍人は残酷であったと、いろいろな捏造話が生まれました。確かに、朝鮮併合だけは、やめておくべきでした。けれども、当時の日本人は、アジアに投資し、共存共栄をしようと試みたのでした。

 要するに、金本位制は世界経済としては不適切で、不況を招いて、戦争を引き起こしました。聖書は、「新しいぶどう酒には新しい皮袋を」と教えています。新しい世界を、金本位制で乗り切ることはできずに、悲惨な戦争を生んだのでした。1844年にイギリスで発祥した金本位制は、アメリカ、オーストラリアのゴールドラッシュで世界に普及しますが、金の埋蔵量が限られているために、デフレ、不況、戦争へと導いたのです。民主主義国は、民意に基づいて、戦争の道を選択したのです。 それを、一部の熱狂的な軍国主義者の悪事としている限り、私たちは、これからも戦争を繰り返します。みんなが幸せに生きるための「皮袋」のために、クリスチャンは祈るべきです。












2017年8月25日金曜日

日本とユダヤ






 ベン・アミー・シロニー「日本とユダヤ―その友好の歴史」を読みました。日本人とユダヤ人との友好で、忘れてはならない三人の人がいます。

 最初の人は、ヤコブ・シフです。日露戦争の時に日本の国債を発行し、高橋是清に戦費の半分を工面しました。当時、シフの住むロシアでは、ポグロム(ユダヤ人迫害)が始まっていました。
 ニコライ二世は、民衆の不信感を抑えるため、ユダヤ人に攻撃の矢を向けました。ロシア警察は、「シオンの長老の議定書」という偽文書を作って、ユダヤ陰謀説を民衆に広めました。
 ユダヤ人は世界征服を企てていると喧伝し、暴動で多数のユダヤ人が殺されます。時に、ニコライ二世は、大津事件で殺されそうになった経験から日本を憎み、戦争を仕掛けようとしました。
 1904年から始まる日露戦争は、在日のユダヤ人が、長崎のシナゴクで、日本の勝利と明治天皇の御栄を祈る中で、翌年、奇跡的な勝利を迎えます。ユダヤ人はみんな日本の勝利を喜びました。
 さらにユダヤ人は、反ユダヤ主義のロシアを倒すため、1905年に、ユダヤ人レオ・トロツキーが、「革命ソビエト」を設立し、ロシア革命に参加します。共産主義に期待が寄せられました。

 次の人は、樋口季一郎です。この時には、ドイツが反ユダヤ主義を行い、ポグロムが始まっていました。ポーランドとソ連はユダヤ人が逃避するための通過を受け入れましたが、満州はドイツと同盟を結ぼうとしており、通過を認めていませんでした。
 関東軍の陸軍少将だった樋口は、ソ連側のオトポールに押し寄せるユダヤ人を、満州側の満州里(マンチューリ)に受け入れる通過ビザを発行しました。満鉄の松岡洋右総裁に同意を得て救援列車を出動させ、無料でウラジオストクまで届けました。
 樋口は、反革命派のロシア人が、ユダヤ陰謀説を信じて、ユダヤ人を憎んでいることを知りますが、共産主義とユダヤ人迫害は別物だと考えました。むしろ、人道上の問題としました。
 また、ユダヤ人の商人が、「日本の天皇は、私たちが待ち望んでいたメシアだと思う。天皇は自らの民を差別なさらず、その民もまた、人種的な偏見を持っていない。」と語るのを聞いて、日本の国是である「人種平等」を守るべきと考えます。
 当時の関東軍参議長であった東条英機中将は、「オトボールの通過をドイツが認めないから、ドイツは人道上、敵国である。日本と満州が、それに与するなら大問題だ。日本はドイツの属国ではないだろう。」と樋口に言われ、ユダヤ人受け入れを認めます。
 こうして、1938年から1941年まで、独ソ戦が始まるまで、「樋口ルート」によって難を逃れたユダヤ人は、二万人に及ぶと言われます。当時の日本は、西欧の「民族差別」を受け入れず、「人種平等」に立っていたことが、このような行動となりました。

 最後の人は、杉浦千畝です。彼は、リトアニアの領事館に務める外交官でしたが、1940年の7月に、ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人に通過ビザを出して、六千人を助けました。まだ、ホロコースト(ユダヤ人虐殺)は始まっていませんでしたが、世界的に反ユダヤ主義が広まり、日本だけが民族差別をしませんでした。
 日本の近衛内閣は、1938年に、「ユダヤ人対策要綱」を決めて、「ドイツのような態度は、人種平等の精神と合致しない」として、ユダヤ人救援を国策としていました。1940年の7月には、「行き先の国の入国許可の手続きが完了していれば、通過ビザを発給すること」と、今と同じような条件で通過できました。
 しかし、杉浦千畝の場合は、最低限の条件を満たさない者も通過させた点が違っていました。全くお金がなくても、シベリヤ鉄道の終点で待っている根井総領事代理の温情を信じ、日本の受け入れ先である敦賀市、神戸市の歓迎を信じていました。
 それで、アメリカが99%認めなかったユダヤ人通過を、日本は100%認めるという、世界的な反ユダヤ主義に逆行する決断を日本の杉浦千畝はしたのでした。帰国後も、杉浦千畝のしたことは、全く責任を問われず、そのまま外務省で働きました。
 後に家族が、杉浦千畝の功績を本にし、それを読んだ鈴木宗男議員、宮沢喜一総理が、彼の功績に脚光を浴びせるようになりました。杉浦千畝を捜し続けたユダヤ人も、戦後28年ぶりに、彼を探し出し、ゴールデンブックに記載しました。
 ただし、杉浦千畝が、1946年に、「例の件」で外務省を辞職したという話を、家族は「ビザの件」と勘違いしたようで、実際は、「リストラの件」だったようです。外務省の三分の一がリストラの対象となり、外交官は諜報員でしたから、戦後の日本に諜報員の居場所はありませんでした。
 杉浦千畝の行動が、長い間、外務省に無視されたのは、日本がアラブ諸国から石油を輸入しているからで、反イスラエル勢力への配慮と考えていいでしょう。鈴木宗男や宮沢喜一は、逆に、戦後のアメリカの親イスラエルへの擦り寄りでしょう。


 ユダヤ人と日本人は、「日本人は民族差別をしない」という一点で、強い絆を築いてきました。それは、これら三人の行動となって現われましたが、決して、個人の問題ではありませんでした。日本はそういう国だったのです。人種平等が国是でした。
 過大に杉浦千畝がもてはやされるところに、当時の日本の国策の立派なところを覆い隠し、日本を悪い国だと決めつけて、杉浦千畝を国に逆らった英雄のように捏造する反日勢力を敏感に感じている人たちもいます。何かおかしい…。
 アメリカのボストン大学のレビン教授は、杉浦千畝に会いに来て、「ふつうの人だった」と感想を漏らしています。そうです。これがふつうの日本人だった時代があったのです。それは、人種の平等を強く信じていた、先達たちの時代でした。
 
 

2017年8月17日木曜日

大東亜会議







  深田祐介の「黎明の世紀-大東亜会議とその主役たち」を読みました。

 1943年の大東亜会議は、民族差別こそが戦争の元凶であるとして、人間の平等を訴えたアジア民族の会議として、稀有の会議であると思われています。日本人が声をかけ、中華民国の汪兆銘、満州国の張景恵、フィリピン共和国のホセ・ラウエル、タイ国のワンワイタヤコーン、ビルマ国のバー・モウ、自由インド政府のチャンドラ・ボースなど、そうそうたるメンバーが集まりました。事情によって、インドネシア共和国のスカルノは参加できませんでした。

 主催した東条英機は、行き届きすぎたぐらいの気配りで、彼の小役人振りが伺えます。会議の前に各国を訪問し、会議の前には各代表を訪ねて挨拶し、議場でもいちいち握手を求めるなど、細かすぎるぐらいの気配りです。彼の「日本が父親のようにアジア諸国を守るんだ」という姿勢は、彼らアジア代表者たちからは受け入れられず、それぞれが、日本の干渉を受けない独立を主張しましたから、会議はちぐはぐで、しかし、熱気にあふれていました。

 それぞれの代表が演説するにあたって、日本側が、通訳者の正確を期したいので、演説の原稿を見せてほしいと依頼すると、ラウエルとボースが、「検閲する気か、高飛車だ」と、頑固拒否します。困ってしまった日本側は、ハーバード大学出身で、通訳としては天才的な浜本正勝を、急遽、同時通訳者として抜擢し、その大任を委ねました。各国の代表者は、それぐらいに、日本を利用はするけれど、自分たちは利用されまい、という気概に満ちていました。

 大東亜戦争は、エネルギー資源の八割をアメリカに依存していた日本が、その供給を絶たれ、西欧列強の経済封鎖にあったために行った、自存自衛の戦いでした。半年もすれば、日本にエネルギーはなくなり、多くの日本人が餓死することがわかっていました。それで、仏印の石油を抑えたところで終結するつもりでした。ところが、マスコミと世論はそれを許さず、軍部も調子づいて、戦局を拡大したために、収拾がつかなくなって、目的を失っていました。

 大東亜会議は、「アジア民族の解放」という目的を無理やりつけて、戦争の拡大を正当化するものでした。けれども、東条英機も、ほかのアジアの指導者たちも、日本が負けることは十分にわかっていて、問題は戦後処理だと考えていました。アジアの代表たちは、本気で、アジアの解放、自国の独立を願っていたのです。実際、白人によるアジア支配は、あまりに残酷なものでした。日本は高飛車でしたが、少なくとも、アジア諸国のために白人を追い出し、守ってくれました。

 大東亜会議の結果、白人支配の苦しみの中から、それぞれの国が独立の道を歩むことが確認されました。日本も、それを最大限支援すると決まりました。そして、日本が戦争に負ける前に、東条英機は各国に独立をするように励まし、再び白人の支配に戻るところから、各国は果敢に戦い、独立を勝ち取っていったのです。フィリピンも、タイも、ビルマも、インドも、インドネシアも、日本に励まされて独立したことを誇っており、ある国は、この会議の日を、自国の独立の記念日としています。

 しかし、汪兆銘は気の毒でした。彼は日本の優柔不断さに翻弄されて、生涯を終わります。せっかく会議で決まったものを、日本人は実行しない。なぜなら、「上下不貫徹、前後不節連、左右不連携」、上で決まったものが下に降りない、前に決まったものが次の政権で忘れ去られる、各組織が横並びで連携できていない…このために、約束を反故にされてきたからです。それは、満州国にも言えそうですが、ほとんどの国が、うまく日本を利用できたのでした。

 肌の色が黄色いからと言って、奴隷にされ、モノのように扱われていいはずがありません。けれども、世界の歴史は、そのような白人の人種差別の歴史でした。まだ終わってはいません。民族が民族を侵略し、虐殺し、その土地を奪ってはならないのです。日本は目的を失い、図に乗ってしまいましたが、アジアの人々は、「黄色い人がやって来て、私たちを奴隷状態から救い出してくれる」という伝説を信じ、そのとおりに、日本人によって自由をもらった、その恩を忘れていないのです。 



















2017年8月12日土曜日

菜根譚







 「菜根譚」を読みたくて、図書館で借りたのが、「菜根譚からはじまる、つながらない関係-世間に染まらず、世間を生き抜く」という、小池龍之介さんが書かれた本です。浄土真宗系の単立寺院の住職さんです。38歳というから、若いなあ。それで、処世術の本を書くんだから、大したものだなあ、と感心をいたしました。

 それで感想と思うのですが、「特になし」。昨日の緻密に情報を集める渡部悦和さんとは対照的に、あまり本を読まないようにしている人です。「何も残らなくなるまでに、すべての思想や観念を手放す」(p187)ことを目指しておられ、「心というものは、空そのもので、何からも影響を受けず、澄んでいる」ものだから、「私がいない」、ただ心だけになればいい、ということですね(p184)。

 私は、罪ばかりの自分を知って、キリストを信じたわけだから、「自分」とか、「自分の心」とかは、そんなにきれいだとは思っていない。人間観、自己認識が随分と真逆だなあ、と思いました。仏教は、みんな善人だという前提だけれど、うまく悟って生きていける環境が与えられればいいけれど、ほんとうは罪人だらけだから、現実との矛盾を埋めるのが大変そう…。

 理想だけで生きていけたらいいなあ…と、少し感心しつつも、「罪人の私にはとっても無理!」と思いました。でも、お坊さんが書いた菜根譚の本で、菜根譚の本文をかなり自由に訳し変えているので、次は、菜根譚そのものを読もうかな、と思います。まあ、普通に考えて行けば、思いつきそうな思想だけれど、逆も考えられるので、突っ込みどころ満載です。まあ、これもありかな。

2017年8月11日金曜日

米中戦争






 「米中戦争-そのとき日本は」を読みました。渡部悦和(よしかず)さんは、元陸上自衛隊東部方面総監で、現在ハーバード大学アジアセンターで、日米中の安全保障関係を研究しています。この本は、日米戦争が起きた時のシュミレーションをしたもので、その時に備え、日本が電磁レールガンなどの開発を加速させ、中国のミサイルによる飽和攻撃に備えるように提言しています。

 日本の現状、アメリカの現状、中国の現状を良く知っておられ、研究に研究を重ねておられるので、これから起きることの参考になります。中国軍は急成長しつつあり、やがてアメリカ軍をしのぐようになって、日本を含めたアジア地方は、中国の支配下に入る可能性が、とても高いのです。特に、サイバー戦、宇宙戦では、すでにアメリカの上を行っています。

 今現在も、日本に住む私たちの頭上では、中国の軍事衛星が、いつでも日本に攻撃を仕掛けられるようになっています。そして、中国がずっと言って来たことは、日本こそが敵国であって、滅ぼさなければならない国であることです。ただ、アメリカと同盟を築いており、今は、アメリカの力が中国を総合的に凌ぐので、米中戦争の時を待っています。アメリカは、先制攻撃はしません。

 ただし、この本が出されたのは、昨年の秋でした。その後、「中国の台頭を歓迎する」と公言していたオバマ大統領に代わり、その路線の継承者であるヒラリーさんではなく、トランプさんが大統領になったために、この本の予測は大きく外れて、アメリカは強くなりつつあります。中国も、米中戦争、日本侵略が、容易ではない事態となってしまいました。野望が砕かれました。

 けれども、アメリカの親中派はトランプおろしに必死で、CNNなどのメディアが偽ニュースを流してイメージダウンを狙っています。現安倍政権も朝日新聞を中心に、偽ニュースを流して、必死に倒閣運動をしています。たぶん、トランプ政権は潰されず、安倍政権も安泰だと思いますが、油断はできません。この本が分析する、台湾有事、南沙諸島有事は、備えておく必要があります。

 しかし、今年初めから始まった、北朝鮮の原爆実験、ミサイル発射の新展開は、朝鮮有事のシナリオの方が先行する勢いです。今年中の朝鮮有事と言われていたものが、今月にも空爆が始まりそうな勢いです。そうなりますと、倒れた北朝鮮の政権を、アメリカが中国に任せる可能性もあります。南北統一でなく、北が中国、南が米国と二分されるかもしれません。

 いずれにせよ、中国の主張する第一列島線、第二列島線の線上に、日本があるのですから、米中戦争の戦場は日本になる、ということです。p27の図は、日本を盾に縦断する列島線を、筆者が加筆したもので、日本の置かれた立場がよくわかります。つまり、この米中戦争に巻き込まれるしかないのです。軍事費が中国の五分の一ぐらいしかない日本は、戦いようがありません。

 中国の兵士は、反日教育が行き届いていて、「日本人を捕虜にした場合、殺せますか」という問いに、半数以上の兵士が、「殺せます」と答えていると聞きます。南京大虐殺の報復として、東京大虐殺をしてやる、という声も聞きます。降伏すれば無事だというのは、ありえない話です。日本は戦争によって征服はされないで、交渉によるのだと言いますが、虐殺は逃れられません。

 神なき国に侵略されるよりは、神さまを信じ、人権と自由を重んじる、アメリカと協力したほうがいいと思います。そのためにも、日本も軍備を整えて、侵略を防ぐべきだと思うのですが、憲法九条を信奉する人々は、抵抗すべきではない、アメリカとの安保条約を廃棄せよ、と言います。自分が虐殺されてもかまいませんが、家族や子どもたちがかわいそうです。

 そんなことも思いながら、ちょっと専門的な、また、半年遅れだったなあ、と思われる本を読みました。ほんとうの平和は、武力で侵略してくる相手に、武力をもって拮抗することだ、というのはその通りだと思います。強盗に襲われて、両手を挙げて、妻も子どもも殺してくださいでは、人間としてどうよ、と思うのです。ちょっと、シュミレーションしてみませんか。









2017年8月10日木曜日

天才






 石原慎太郎の「天才」を読みました。田中角栄が語り口調で自らの人生を振り返る「独白」の形で書かれていて、とても読みやすかった。田中角栄というと、お金をばらまくような金権政治を作った、悪の権化のようなイメージがあるけれど、「政治は結局お金だ」という考えが生まれて来るプロセスがわかる…やっぱり、面倒見がいい人を、他の政治家も信頼するよね。

 でも、やっぱり日中国交正常化なんて、台湾を裏切るような真似をして、アメリカと対等になろうなんて、誤算だよなあ。周恩来は、その時から、日本人皆殺しを考えたっていう人もいるし、田中さん、調子に乗りすぎたなあ。相手は、数千万の自国民を虐殺しても意に介しない、腹黒い人間たちだって、わからなかったんだろうか。なんか、おめでたいな、って思いました。

 ロッキード事件は、そんなアメリカを出し抜こうとした田中さんへの報復だったって、思いますね。小説にあるように、全く身に覚えのないことだったと思うし、全く身に覚えのないことがピンチにつながることは、私も経験してよく知ってます。それが腹黒い策略…愛国者田中さんは、お金ですべてを解決しようとしたけれど、腹黒い人間のことはわからなかった。

 悲しいのは、秘書であり愛人であった佐藤昭の娘、敦子さんのリストカット、飛び降り自殺未遂…プライバシーにまで踏み込んでも、田中おろしを画策するメディアを前に、さすがの田中さんも、総理をやめる決意をします。正妻の奥さんの娘、真紀子さんともうまく行かない。家庭内はめちゃくちゃです。その中でも、子どもたちを守ろうとした田中さんは、偉いなあ。

 確かに、田中さんは、テレビというメディアを造った人、高速道路や新幹線で日本をつなげようとした人。各県に一つの飛行場を提案した人。この国のエネルギー資源のために、原子力を推進した人、って評価はあるけれど、田中角栄によって、日本の高度成長は終わったんだよね。石原さんは、田中さんのような人物の再来を求めているけれど、違うと思うなあ。

 日本の歴史の中で、一番優れた総理はだれかと言われれば、まだ就任中だけれど、安倍晋三だよね。保守派からすれば、リベラルすぎて物足りないって思うだろうけれど、一番バランスが取れている。お金をばらまいても、この日本はまとまらないよ。日中国交回復なんて、仲良くする相手を間違えていない? 天才と言われても、方法が間違っているなって気がしますねえ。

 そういうわけで、もっと天才なのは安倍晋三…けれども、この日本は、この国難に、安倍晋三に勝る天才を必要としている、って思いました。アメリカ軍の北朝鮮の爆撃が、今月中に始まるかもしれないって時に、田中角栄の再来じゃ無理でしょ。誰が危険がわかっていない。今の総理には、危機管理能力が極度に求められているんですよね。
 




2017年8月9日水曜日

憲法改正の真実






  「憲法改正の真実」を読みました。私は、「憲法をもっと良くして」と思っているので、護憲派の人からすれば改憲派と呼ばれます。そんな立ち位置じゃなく、「無謬の聖書とは違うんだから、人間が書いたものだから、改善の余地はあるでしょ」ぐらいなのですが、憲法を無謬の書物と考えている人々からは、許し難い改憲派になるわけです。それで、護憲派の本を読もうと…。

 でも、「国民怒りの声」(怒り新党)を立ち上げた小林節さんらしく、初めから憎しみ、怒りの感情があらわで、読むのがほんとうに辛い。学者というのは、こんなに感情だけで話すものかな、と気分を鎮めつつ、何とか最後まで読み切りました。教会にも、護憲派のクリスチャンがいるけれど、ほんとうに怒りや憎しみばかりで、事実関係をきちん話せないのが、よくわかりました。

 結論は、最後に書いてあったけれど、「安倍、なめんなよ!」の一語でしょう。いろいろと安倍政治を批判するのですが、「でも、それはちょっと事実とは違うんじゃないか…」と突っ込みを入れたくなります。「改憲マニア」と自民党を罵倒して、「憲法は権力を縛るものだ、国民の命を守るなんて、憲法の意味も知らない」と学者風をふかしますが、国民の命を守らない憲法なんて、変えなきゃいけないよ、と思ってしまいます。フランス革命はそうだったと言いますが、ここは日本だし…。

 確かに、国民の命を守る力は、悪者が主権をとれば国民を殺す力にもなる、という理屈はその通りで、「よく良くする」必要はあるでしょう。けれども、安倍首相を独裁者、ヒトラーに譬えたり…人間としての良識を疑います。最後は、「革命しかない」なんて言っているから、この人、民主主義に反しているなあ、と思いました。暴力革命が本音の「怒り満ちた人」でした。残念…。

 しかし、日本の多くの国民は、こんな護憲論には納得しないでしょうね。新聞では、内閣支持率が30パーセントとか、40パーセントとか言っているけれど、わずか2000人の色のついた人々のアンケートでしょ。6万人のネット調査では、内閣支持率は70パーセント以上です。もちろん、護憲派の人々の意見も汲み取りつつ、憲法を良くしてほしいけれど、憎しみや怒りの偏見はいかんなあ。

 聖書では、イエスさまを十字架につけようとするパリサイ派・律法学者の運動と、イエスさまを守ろうとするペテロたちの対立があって、反イエス勢力は「十字架につけろ」と叫び続け、親イエス勢力は剣をもって戦おうとする…イエスさまは、親イエス勢力の剣を叱られたのです。反日勢力は強力で、感情的だけれど、感情で立ち向かってもダメ、ってことですね。「聖書の真実」「みことばの剣」を身に着けたいものです。

 





2017年8月8日火曜日

トランプさん、がんばれ






 藤井厳喜さんの「日米対等」を読みました。以前、藤井さんの「地政学」の本を読んで、ランドパワーとシーパワーの違いなど、国際情勢を読み解く方法を教えられました。藤井さんは、トランプ大統領の誕生を当選前から予測していました。この点で、日本のメディアは間違っていました。

 木村太郎もアメリカに行き、ヒラリーさんの集会に人が集まらず、トランプさんの集会が超満員であることを見て、メディアの報道が作為的であることを知ります。エスタブリュシュメントと呼ばれるエリートの金持ち層が、メディアを使って、トランプ叩きをしていたのです。

 その構造は今も変わりません。アメリカの大多数の人々は、少数の金持ち層だけが利権を独占し、ほとんどのアメリカ人が貧困の中にいることを嘆いています。メディアは金持ちに牛耳られているので、ヒラリーをほめたたえ、トランプを叩きます。トランプも、「偽ニュース」に反撃します。

 アメリカの大衆は、トランプ政権を8年間維持しようとするでしょう。しかし、クリントン財団の周りの人々のうち、50人近くが変死をしているというヒラリーの魔の手が、トランプを暗殺するかもしれません。あるいは、ヒラリーを操っている利権が、トランプの抹殺をはかるでしょう。

 日本ではアベノミクスが、アメリカではトランプノミクスが、その経済を回復させています。日本は安倍総理が守り、アメリカはトランプ大統領が守っています。安倍さんほどクリーンな人はおらず、森友、加計問題をメディアがねつ造しても、何の罪も見出せませんでした。

 メディアはただ「怪しい」と言って、大衆のイメージを「何となく嫌い」に持っていくだけです。メディアの背後には巨大な利権があって、安保法案で岸信介に恨みを持つ過激派が、メディアの中枢を握っているだけです。アメリカのメディアにも、アメリカの経済を動かす富裕層の利権があります。

 トランプ政権は着実に基盤を固めていって、FBIのコビー長官など、幼児ポルノを野放しにして来たような腐った幹部を、より信頼のできる誠実な指導者と挿げ替えています。けれども、籠池氏を祭り上げた日本メディアのように、CNNなどはイメージ操作でトランプを下ろそうとします。

 4千5百万円の大統領の年俸を、百円(1ドル)の年俸でいいと、トランプは大統領に就任しました。お金だけが目的のアメリカの政治家に対する挑戦でしょう。もちろん、給与はちゃんといただいているのです。年収百円です。お金にクリーンな大統領は、暗殺のターゲットになりやすい。

 トランプが目指すのは、普通のサラリーマンが、まじめに働けば、自分の家を持ち、家族を育て、生活が守られて、幸せに死んでいく、「アメリカンドリーム」の実現です。アメリカの大衆を幸せにすることを、ポピュリズム(大衆迎合主義)と揶揄する人たちがいますが、いいえ民主政治です。

 日本は、2004年になって、初めて「国民保護法」が生まれました。国民の生命を戦火から守るという法案で、それがなかったために、東京空襲では逃げ惑うだけで、10万人が死んだのです。今でも、自衛隊の規則には、「国を守る」とあっても「国民を守る」とは書かれていません。

 アメリカの国民を守ろうとするトランプさんが、メディアの印象操作に打ち勝って、アメリカの民衆を助けてくれますように。日本の国民を守ろうとする安倍さんが、メディアの印象操作に打ち勝って、日本の若者たちを守ってくれますように。日本の老人はテレビ漬けなので、苦労しますが…。





2017年8月7日月曜日

ドストエフスキーの病






 今日読んだのは、フロイトの「ドストエフスキーと父親殺し」です。

 「カラマゾフの兄弟」で、父親殺しを描くドストエフスキーの病理を分析しています。ドストエフスキーの父親は軍医でしたが、退役後、小さな村の医者になります。けれども、村人は父親を憎み、殺してしまいます。窒息死で、他殺だとわかっていても、警察は調査しませんでした。村ごとシベリヤ送りになるし、ドストエフスキーの家族も、生活ができなくなるからです。

 けれども、17歳だったドストエフスキーは、兵役先で父親死亡の知らせを聞き、その時から、癲癇の発作が始まります。 彼は、暴力的な父親を憎み、殺したいと願っていました。フロイトの言う、オディプス・コンプレックスです。けれども、自分が殺す前に、村人に殺されてしまいます。以後、父親への尊敬と、果しえなかった殺意とが、ドストエフスキーの中で葛藤を始めます。

 発作が始まると、仮死状態になります。そのためにドストエフスキーは、「死んだように見えますが、五日間は埋葬しないでください」というメモ書きを、いつも置いていました。その後、無実の罪でシベリヤ送りになりますが、何も釈明せずに冤罪を受け入れたのは、殺したくても殺せなかったということが、彼の罪責感となって重くのしかかっていたからでした。

 彼の精神の異常は、賭博への依存となって、その妻を悩ませます。また彼は、未成年女性を強姦したことも自白しています。まったく自分をコントロールできず、オディプス・コンプレックスの結果、母親を独占しようとする思いが、少女への暴行となってしまう…そのような異常な精神が、宗教性を帯びて、彼の小説となっています。「罪と罰」の罪観は、それと関係がありそうです。

 ドストエフスキーは、日本でブームになり、どこの書店でも新書版が手に入れられるぐらい、ポピュラーなものとなりました。けれども、それを読んだ私は、聖書とは異なる「罪観」が描かれていて、精神異常を感じさせるものがありました。皆さんの中にも、ドストエフスキーを読んで、その宗教観に異常なものを感じた人がいるのではないでしょうか。

 「聖書のみ」-それだけが、私たちに健全な、正しい罪観を教えてくれるものです。ドストエフスキーの病理を知るとともに、「聖書だけを信じる」思いも、強くなりました。ドストエフスキーを読んだからと言って、信仰がわかるわけではありません。どうぞ、聖書だけを信じてください。

 あ、もちろん、「健康な者に医者はいりません」とイエスさまがおっしゃったように、病んでいる人にこそ、イエスさまは必要です。精神異常が悪いわけではありません。イエスさまのところに来てください。そのための病ではありませんか。