2017年8月7日月曜日

ドストエフスキーの病






 今日読んだのは、フロイトの「ドストエフスキーと父親殺し」です。

 「カラマゾフの兄弟」で、父親殺しを描くドストエフスキーの病理を分析しています。ドストエフスキーの父親は軍医でしたが、退役後、小さな村の医者になります。けれども、村人は父親を憎み、殺してしまいます。窒息死で、他殺だとわかっていても、警察は調査しませんでした。村ごとシベリヤ送りになるし、ドストエフスキーの家族も、生活ができなくなるからです。

 けれども、17歳だったドストエフスキーは、兵役先で父親死亡の知らせを聞き、その時から、癲癇の発作が始まります。 彼は、暴力的な父親を憎み、殺したいと願っていました。フロイトの言う、オディプス・コンプレックスです。けれども、自分が殺す前に、村人に殺されてしまいます。以後、父親への尊敬と、果しえなかった殺意とが、ドストエフスキーの中で葛藤を始めます。

 発作が始まると、仮死状態になります。そのためにドストエフスキーは、「死んだように見えますが、五日間は埋葬しないでください」というメモ書きを、いつも置いていました。その後、無実の罪でシベリヤ送りになりますが、何も釈明せずに冤罪を受け入れたのは、殺したくても殺せなかったということが、彼の罪責感となって重くのしかかっていたからでした。

 彼の精神の異常は、賭博への依存となって、その妻を悩ませます。また彼は、未成年女性を強姦したことも自白しています。まったく自分をコントロールできず、オディプス・コンプレックスの結果、母親を独占しようとする思いが、少女への暴行となってしまう…そのような異常な精神が、宗教性を帯びて、彼の小説となっています。「罪と罰」の罪観は、それと関係がありそうです。

 ドストエフスキーは、日本でブームになり、どこの書店でも新書版が手に入れられるぐらい、ポピュラーなものとなりました。けれども、それを読んだ私は、聖書とは異なる「罪観」が描かれていて、精神異常を感じさせるものがありました。皆さんの中にも、ドストエフスキーを読んで、その宗教観に異常なものを感じた人がいるのではないでしょうか。

 「聖書のみ」-それだけが、私たちに健全な、正しい罪観を教えてくれるものです。ドストエフスキーの病理を知るとともに、「聖書だけを信じる」思いも、強くなりました。ドストエフスキーを読んだからと言って、信仰がわかるわけではありません。どうぞ、聖書だけを信じてください。

 あ、もちろん、「健康な者に医者はいりません」とイエスさまがおっしゃったように、病んでいる人にこそ、イエスさまは必要です。精神異常が悪いわけではありません。イエスさまのところに来てください。そのための病ではありませんか。

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