2018年2月4日日曜日
国造りの設計
藤岡信勝「教科書が教えない歴史」の「国造りの設計」の章の前半をまとめます。
1853年にペリーの率いるアメリカ艦船四隻が来航し、日本に開国を迫りました。欧米の列強が植民地を拡大して行く中で、日本は初めて、覇権主義国家の脅威を身に感じました。欧米列強は世界のほとんどを植民地化していて、極東の果てにある日本だけが、まだ植民地にしていなかったわけです。なにせ、遠かったものですから…。
吉田松陰は長州藩・萩(山口県)の人で、江戸に遊学に来ていた時に黒船来航を目の当たりにしました。萩に帰った松蔭は、「これは日本の危機であるから、旗本・譜代に任せるのではなく、幕府の総力を上げて、立ち向かうべきである」と、藩主に意見書を書きました。それは、「ひとつの藩の利益ではなく、国家の立場で物事を考えるべき」という、近代国家思想に発展して行きます。松蔭の考えは「明治維新」につながるものでした。
翌年もペリーは来航しました。松蔭は密航を企てますが、ペリーに拒否され、失敗に終わりました。その後、松蔭は故郷、萩に帰り、「松下村塾」を開いて、若者たちの育成にあたり、優れた指導者を輩出しました。自分を「僕」と呼んで、仕える精神を表したのも松蔭でした。しかし、1858年、安政の大獄で、松蔭は捕らえられ、江戸、伝馬町の牢で処刑されます。30歳でした。松蔭の松下村塾は、明治維新の発祥地となりました。
松蔭と同じく、黒船の来航を目の当たりにして、日本の将来を憂いた人物に、坂本龍馬がいました。土佐藩(高知県)の出身で、剣の修業で江戸に出ていました。竜馬は、松蔭のように幕府が総力をあげるよりも、新しい政府のことを考えていました。そのためには、犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩が手を結ぶ必要があります。薩摩藩代表の西郷隆盛と、長州藩代表の桂小五郎の話し合いを成功させたのは、坂本龍馬の功績です。
竜馬は、「船中八策」と呼ばれる新政府のための基本方針を考え、それが維新に引き継がれたと言われています。それは、①大政奉還する ②二院制議会を設ける ③有能な人物を政治に登用する ④不平等条約を改正する ⑤憲法を制定する(五箇条の御誓文) ⑥海軍を拡張する ⑦御親兵(近衛兵)を設置する ⑧金銀交換レートを変更する、といったものでした。竜馬も、大政奉還の一ヶ月後、暗殺されました。31歳でした。
江藤新平は佐賀藩の人で、国政の基本方針を定めました。①中央集権制(君主制) ②三権分立 ③郡県制、を実行しました。列強から日本を守るには、天皇を君主とした中央集権によって、日本をひとつにする必要がありました。しかし、中央集権制が独裁とならないために、三権は分立しておく必要がありました。郡県制は、版籍を奉還しても、藩主が殿様意識を持ったまま、政府の言うことを聞かないといけないので、政府の命に従う地方機関として、どうしても必要でした。
また、新平は「民法」を制定しました。司法省の権限を強めて、士農工商の封建的な身分制度をなくすためでした。士農工商は、カースト制度のようなものではなく、職業的な住み分けでした。日本は農民が主体で、農民を守るために武士が生まれた国です。けれども、新しい政府では、徴兵制によって国民がみな兵隊になりました。法のもとに平等でした。新平は、佐賀の乱で主導権争いに破れ、41歳で処刑されました。
大久保利通は、薩摩藩の人でした。利通は廃藩置県を推進した指導者でした。1868年に明治政府ができても、政府にお金は全くなく、お金は地方の小国家、藩が持っていました。その封建制の仕組みを郡県制に変えて、政府から派遣された知事が地方を政府に従わせる仕組みを作らなければなりません。政府が財的に堅固にならないと、西欧の植民地化から逃れられません。しかし、倒幕から三年、まだ統一国家はなかったのです。その理由は、武士が藩から給与を得ていたからで、藩をなくすと武士が失業するからです。
しかし、利通は周到な準備を重ねた上で、1871年に「廃藩置県」を断行してしまいます。一滴の血も流さずに、徳川封建体制を「統一国家日本」に変えたのです。諸外国では、何年も血を流さなければ得られない、大改革を行ないました。そのために、利通は私情を断ち切って、冷酷と言えるほどの行動に出ましたが、「日本全体を考えた」ゆえのことでした。こうして利通は、①富国強兵 ②殖産興業、によって日本を強くしました。1878年に暗殺されました。47歳でした。
福沢諭吉は、中津藩の人ですが、新しい政府に仕えることをせず、自由な立場から新しい国造りを応援しました。徳川幕府の時代に、幕府から欧米に派遣され、「西洋事情」を書いて、西欧の進んだ文明を日本に紹介しました。「学問のすすめ」を書いて、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と説きました。それは、アジアの人々が、植民地のもとで、奴隷のようにこき使われている姿を見てきたからでした。「日本の国の独立」が諭吉の目的であって、学問はその手段に過ぎませんでした。66歳まで生きました。
伊藤博文は、吉田松陰と同じ長州藩の人で、松下村塾の出身です。博文は、ドイツ・オーストリアに渡って、グナイスト、シュタインという学者から、一年半、憲法の教えを受けました。帰国後、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎、法律顧問ロエスレルと泊りがけで仕上げたのが「明治憲法」でした。1889年に、憲法発布の祝典が催され、翌1890年には、憲法に基づく、第一回衆議院議員総選挙が行われ、日本の国は確立しました。
博文は、松蔭に「周旋の才あり」と評された人で、これは「交渉がうまい」という意味です。しかし、朝鮮併合だけは反対した人で、朝鮮人安重根に暗殺されました。68歳でした。吉田松陰が礎を築き、坂本龍馬が先駆けとなり、江藤新平と大久保利通が大きく躍進させた日本国は、伊藤博文によって完成しました。しかしながら、これらの有能な功労者たちが、ほとんど暗殺されているところに、日本の国の暗部を見ます。良き指導者を暗殺する国は、預言者たちを殺して来たイスラエルに似ています。先人の墓を建てるだけでなく、その功績を正しく評価しない限り、同じ愚を繰り返すと憂えるのです。
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