2017年11月11日土曜日
朝鮮人慰安婦と日本人
吉田清治「朝鮮人慰安婦と日本人―元下関労報動員部長の手記―」を読みました。
1977年の発行ですから、朝日新聞から「朝鮮の女性 私も連行 暴行加え無理やり」(1982年)という同氏の記事が出される5年前の著作です。この著作では、済州島ではなく、下関市の大坪の朝鮮人女性を、強制連行ではなく、「女子挺身隊」と騙して、慰安婦にしたと書かれています。
あとがきには、「朝鮮民族に、私の非人間的な心と行為を恥じて、謹んで謝罪いたします 吉田清治」とまで書かれていますから、 あくまでも事実であったかのように、ノンフィクションの体裁をとっています。戦後30年以上が過ぎて、なぜ、自分の悪事を告白するのかと言えば、
「今の日本では、在日の人々が排斥され、差別され、侮蔑され、難民生活を強いられているから」「日本人の母親は在日との結婚を子どもに許さず、父親はアパートや借家を貸すことを拒んでいるから」「朝鮮の高校生を、日本の高校生が登下校時に襲い、傷害を与えているから」
と言っています。日本人は、道徳性、人間性を失ってしまい、明治維新以来、欧米の植民地思想を受け継いで、他国を侵略する民となってしまったからだ、というのです。吉田氏は、在日への排除思想を改めて、残忍性のない仏教思想に戻り、人類共存をするよう訴えています。
この著作の中で、吉田氏は、正義感を持った有徳な人物となっています。満州の役人だった時に、義侠心から、一歳年下の朝鮮人を養子にしています。両親も親戚もいない吉田氏は、養子にした朝鮮人に日本人の嫁を娶らせますが、結婚式の四日後に、日本国籍を持ったがために、彼に召集令状が届きます。「何で自分でなく、彼なんだ…」―翌年、新妻を残したまま、彼は戦死します。
息子となった朝鮮人は、9月1日に戦死しました。それは、彼の父親が、関東大震災の時に、日本軍に殺害された15年前の9月1日と同じ日であった、というのです。父親も子どもも、日本軍のために殺されたのでした。意気消沈した吉田氏は、満州の役人をやめて、中華航空の上海支社の営業所主任となります。東京の大学を出ていますから、いつでも要職に就きます。
実際は、吉田氏が大学を出た記録はなく、高校の記録でも、同名の人物は死亡しているようで、吉田氏の過去を知ることは困難です。けれども、要職に就いたと言います。 中華航空にいる時に、後に「韓国の父」と呼ばれる「金九」を搭乗させたとして、憲兵につかまり、軍法会議で有罪となって、2年間服役します。出所すると、山口県労務報国会の下関支部の動員部長になります。
出所してすぐに部長になれるんだ…この「労務報国会」に吉田氏がいた記録はなく、「下関肥料株式会社」の取り締まり役として、労務報国会の肥料をお百姓さんに回していたことは分かっています。その会社もすぐに倒産して、借金取りに追われていたこともわかっていますが、この著書では、吉田氏は労務報国会の動員部長として、「朝鮮人狩り」をしたと言っています。
「労務報国会」は日雇い労働者の現場監督をする組織で、徴用などはできないはずですが、吉田氏が部長となって、西日本一の在日朝鮮人の徴用者数を獲得したと言います。吉田氏によると、1943年から、軍が朝鮮人の徴用に関与し始めた、と言うのです。この年に、鳥取の大地震がありました。その復旧工事のために、吉田氏は軍に協力し、50人の朝鮮人を徴用することになります。
その時に、吉田氏が言うのは、関東大震災で日本軍が朝鮮人を殺したから、震災と聞くだけで、朝鮮人は殺されると思ってしまう。それで、朝鮮人狩りで集めた朝鮮人の15人を、日本人の10人と引き換えにして、日本人を鳥取に送ったのでした。朝鮮人狩りの方法は、昼間に出頭命令書を渡し、家族がかばうので、夜になって忍び込んで、懐中電灯で照らして、捕まえたりしました。
朝鮮人はとてもおとなしく、すぐに捕まえられました。日本人は、アメリカやイギリスの捕虜を「毛唐」と呼んで卑しめましたが、日本人の目の届かないところで、アメリカやイギリスの捕虜を優しくいたわっていたのは、朝鮮人でした。朝鮮人は、今も昔も、羊のようにおとなしく、優しい民族でした。しかし、日本人には奴隷のように扱われ、ほとんどの朝鮮人は狩り出されてしまいました。
捕まった朝鮮人は、チョークで背中に赤丸を付けられ、ステッキで小突いて、前に並ばせられました。家畜を扱うように、「痩せたのしかいないけど、我慢してくださいよ」と、取り引きされました。家族と別れの挨拶をしようものなら、ステッキで打ち叩かれました。病気で死ぬ朝鮮人もいました。吉田氏は、「労報死」として、自分の権限をもって、そのような者には特別な葬儀を行いました。
「ありがとうございます。立派な葬儀にしてください。」
そう言って、朝鮮人は、吉田氏の暖かな心遣いに感謝するのでした。やがて、朝鮮人狩りは、朝鮮本土でも行うようになりました。海軍の徴用のためでした。大邱市に大邱神学校がありますが、危険思想を持つ者として処罰するよりは、海軍に入隊させたほうが良い、となりました。また、大邱の地方の部落に、警察の護送車を走らせて、人家を見つけると狩り出しをしました。「役所の仕事だ、金になるぞ」と言うのですが、抵抗すれば、平手で打つ、木剣で脅す、ステッキで小突きました。
挑戦狩りをする動員部隊は、士気が盛んでした。まるで出征するかのような意気込みでした。朝鮮人を捕まえて、「お前は幾つだ」「15歳です」と答えるので、「それじゃ使えんな、帰ってよし」と言うと、その少年が「さようなら」と言ったので、みんな、噴き出して笑いました…吉田氏のこんな話を読んでいて、なんでおかしいのか、気が変なのか、と私は思ってしまいましたが…。
延々と、朝鮮人の徴用の話が続きますが、動員部隊の人たちは、「21歳か、若くていいのが見つかったね」「今日は大漁、大漁」とはしゃぎながら、狩りを楽しんだのでした。そんなことをしてしまったと、吉田氏は反省の意味で書いているのでしょう。集めた朝鮮人は、198人、「南太平洋方面海軍作業愛国団」として、海軍に入団しました。…奴隷みたいに集められた人が、海軍で使えるのか、私にはわかりませんが…。
そして、ついに、吉田氏自身は「腹立たしい」と言うところの「女子挺身隊」の徴用が始まりました。吉田氏は、潔癖な人柄なので、売春にかかわる仕事はしたくないし、売春婦というだけで、不潔で、嫌悪するのでした。しかし、日本軍のための慰安婦は不足しており、日本人の遊郭には年配の女性しかいないため、若い朝鮮人女性が喜ばれるのでした。
1944年に、山口県知事が、女子挺身隊の動員命令を、月30円の報酬で公示しました。この記録も怪しく、実際、慰安婦を想定していたのか、この公示が史実なのかもわかりません。「女子挺身隊」=「慰安婦」という図式も、吉田氏のこの記述から始まっているのかもしれません。女子挺身隊は、慰安婦の働きはしなくて、ふつうに銃後の作業をしていたからです。また、慰安婦ならば、月1000円はもらえたと、米軍の記録にあるようです。
吉田氏は、女子挺身隊と騙して、慰安婦を動員した、と証言しています。彼がそういう組織の部長であったこと自体があり得ないのですが、ともかく、「傷病兵の洗濯奉仕程度の軽作業」「軍の雑役婦」と騙して、月30円という報酬を前面に出して、女子挺身隊を募って行ったと言います。支那の海南島に送られるとは言いづらかったので、「対馬の陸軍病院」で働くと騙しました。今、対馬は韓国人の島になってしまいましたが、こんな嘘があったとしたら、その罰かもしれません。
吉田氏は、若い女ばかり、朝鮮人を100人集めて、「朝鮮人女子挺身隊」として、彼女たちを支那に送ったと言います。「対馬だったら」と、親も娘を送り出します。16歳の娘もいましたが、平均は18歳でした。「海南島に着くまで、秘密にしておかないと、身投げでもされたら困る」と、すべて騙し切ったのでした。このように、若い朝鮮人女性を騙して、支那にいる日本軍に慰安婦として送ったと、吉田氏は謝罪をしている…これが、この本のクライマックスです。今、「少女像」が世界中にばらまかれているのも、吉田氏の「16歳」によるのかもしれません。
吉田氏の著書は、私が読んでいても、気がおかしくなるぐらいに信憑性が全くないのですが、今の慰安部問題の発端となり、根拠となっていることも事実です。嘘がまかり通っています。その嘘をちゃんと聞いてあげることも大事かな、と思います。けれども、日本人は嘘は嫌いですし、聖書は「隣人に対して、偽りの証言をしてはならない」と命じています。しかも、嘘を「ほんとう」と言って通そうとするのですから、これは赦し難い罪です。 慰安婦問題は、実に赦し難い嘘です。
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