2017年9月1日金曜日

クリスチャンの道徳心




  4月に亡くなられた知の巨人、渡部昇一氏の「日本人の道徳心」を読みました。日本は戦後、道徳心という大切なものを失いました。その道徳心は「教育勅語」を土台としたものでした。教育勅語はわかりやすく「修身」として子どもたちに教えられていました。思い出せば、私の両親も、「よく学び、よく遊べ」と教えてくれました。それは修身の教科書の最初に書かれていることでした。


 修身は、義理、人情、思いやり、忠義、善行を教えるものでした。困っている人がいれば、喜んで助けました。昔の人は、教育勅語が教える、古き良き伝統の世界、幸せな世界を生きていました。「朝読み」といって、朝一番に学びました。学んだ分、学力が付きました。「学べ」という命令が道徳であって、理屈では教えられないのが道徳です。良いものは良い、ダメなものはダメなのです。

 明治以前は、日本の根本は神道で、それに仏教と儒教がバランスよく混じっていました。独特の宗教観がありました。そこに、明治維新が起きて、西洋の思想が入ってきました。それまで、多少儒教に傾倒していた日本人は、アヘン戦争を見て、中国の儒教に疑問を抱き始めます。西洋の価値観の侵入と、東洋の価値観の揺らぎ…明治天皇は、危機感を持たれて、教育勅語を発布されました。その作成を、儒学者の元田永孚(ながざね)と、西洋通の井上毅に託しました。

  教育勅語の12の徳目は、次の通りです。

1.親に孝養をつくしましょう(孝行)

2.兄弟・姉妹は仲良くしましょう(友愛)

3.夫婦はいつも仲むつまじくしましょう(夫婦の和)

4.友だちはお互いに信じあって付き合いましょう(朋友の信)

5.自分の言動をつつしみましょう(謙遜)

6.広く全ての人に愛の手をさしのべましょう(博愛)

10.広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう(公益世務)

11.法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう(遵法)

12.正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう(義勇)

 これらは法律ではなく、明治期の道徳的な混乱をともに乗り切っていこうという、天皇の願いでした。日本には在来の宗教があり、外国から新しくキリスト教が入ってくるときに、宗教色のない、普遍的な道徳的な価値観に立とうとしたものです。確かに、これは宗教ではありません。そのため、その解説書である修身は、「The Book of Virtues」という本になって、アメリカで、3000万部を超えるベストセラーとなりました。その普遍的な価値が証明されたわけです。

 このような非宗教的な道徳は、石田梅岩の「心学」という形で、江戸時代からありました。それは、儒教、仏教、神道、武士道、キリスト教…何でも利用して、心を磨きなさい、というものでした。教育勅語は、そのような心学であったと理解できます。修身は、「糸がもつれたら、切ってしまうのではなく、辛抱して解きなさい」と、忍耐を教えます。「重い荷物を持っている人がいたら、その荷物に棒を通して、ふたりでかついであげなさい」と親切を教えます。そのような忍耐や親切が修身です。

 また、「貸したまりをなくしてしまったと、友だちが詫びて来たなら、『過ちだから仕方がない』と赦しなさい」と、赦しを教えます。今の時代の人は、被害者意識が強すぎて、赦しを忘れています。あるいは、「弁償しなさい」とお金ばかりです。赦すことができれば、どんなに心が楽になるか、と修身は教えるのです。現代の教育は、エリートを生み出しますが、道徳心のないエリートは、社会を悪くしてしまいます。今の日本の教育基本法は、道徳を教えていないからです。

 敗戦後、共産主義者は、GHQに取り入って、戦前の日本は悪かった、軍国主義だったと、悪口を言うことで、その地位を守ろうとしました。彼らは、進歩的な文化人と自称しましたが、教育勅語を廃止させることで、日本古来の民主主義を破壊してしまったのです。アメリカは民主主義の国のようで、実は、共産主義と同じです。わずかにエリートが支配する独裁国家という意味では、アメリカの民主主義は、日本の民主主義の比ではありませんでした。

 教育勅語が廃止されても、修身にみられる日本人の道徳心は、根強く残っていました。東日本大震災の時、トモダチ作戦で救助してくれたアメリカの兵士は、「あっちに、もっと困っている人がいるから、そちらを先に助けてあげてください。」という日本人の道徳心に驚き、「これがほんとうの文明国だ」と、日本人の民度の高さを評価したのです。今でも、外国人の日本人の評価は、「礼儀正しい」「勤勉である」というものですが、修身の精神と一致しています。

 「目に見える 神に向かいて恥じざるは 人の心の まことなりけり」(明治天皇 御製)

 目に見えない神さまがおられる、その神さまの前に、恥ずかしいことはできないというのが、日本人の根底にあります。それが、〇〇教という形をとらずに、普遍的な道徳意識となっているのです。私も両親から、「正直に生きなさい」と教えられて育ちました。けれども、戦後の日本人の中には、教育勅語を否定し、修身を軽んじる、悪い人間たちが増えました。助け合い、尊敬し合うのではなく、負の感情をもって、足を引っ張る人が増えました。卑しい言葉を使う人が増えました。

 「日本人は性善説だ」と言う人がいますが、少し違います。孟子は、「人は善を行うために生まれた来たのだから、心を磨かなければ、善にはならない」と教えました。生まれつき善人だというよりは、善人になっていくのです。そのために、「絶えず心を磨く」という心学を持たないと、どんなに知的にエリートでも、恥ずかしい人間になってしまいます。心を磨く心学をしない、不学な人は、年を取るとタガが緩みます。秀吉は、政治的な天才でしたが、不学なために道徳心を養えずに、晩年、変わってしまいました。

 「民のため 心のやすむ時ぞなき 身は九重の 内にありても」(明治天皇 御製)

 天皇は、国家国民のために祈り続ける務めを負ってきました。特に、民の生活を心配し、大嘗祭には、お米を賜る神様に感謝し、新嘗祭には、新米をいただいて民は喜んだのです。日本は、祭司である天皇と、その宝の民である国民が、一体となった社会です。天皇は、「日出処の天子」であるために、太陽のシンボルで表されます。それが日本の国旗です。そして、クリスチャンにとっては、その天皇の上に、大祭司であられるキリストが、すべての国民のために祈っておられるのです。私たちには、日の丸は、天皇であるとともに、義の太陽キリストのシンボルです。

 教育勅語も、修身も、聖書の教え、神さまの御言葉の予型のように思います。万人共通の道徳が教育勅語、修身であるとすれば、キリストの信仰が現れて、恵みが豊かに注がれて、それにまさる義があかしできれば、どれほど「世の光」となることでしょう。けれども、戦後、この共通の道徳が否定されたばかりが、クリスチャンが、それを非難しているのです。それが実に痛ましいことです。パリサイ人にまさる義がなければ、天国に入れないとイエスさまはおっしゃったのに、 パリサイ人の義にも及ばないとは…。道徳心のないクリスチャンになってはいけません。


















































































































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